2012年2月11日 (土)

橘曙覧を読む、その2

ロビン・ギルさんからコメントを頂戴して、吉岡生夫さんのサイトを読んだりしていました。

何分にも不勉強な私には、狂歌と和歌の違いもよく解っていません。

超・ざっくりした私の理解では、江戸時代に一世を風靡した狂歌は「戯れ歌」の類として庶民のインフォーマルなものとして自由自在に謳歌される代わりに「正統」とか「正式」なものではなく格下として扱われ、和歌はその逆というか、江戸時代においても生息を続けていたお公家さんたちを中心とする様式的なフォーマル世界で、細々と「正統」として生き残っていた…という感じでしょうか。それが明治の近代短歌の登場によって一つの「短歌」という形式に集約された、と私は思っています、なんとなく。

たぶん、現代の音楽シーンにおける「クラシック」と「ポップミュージック」みたいな感じじゃないかと。
で、こういう区分けされた分野って必ずグレイゾーンというかクロスオーバーというか、その両方をまたがりたがる人とか行き来したがる人がいるので、厳密に区別できるものでもないんじゃないかと私は思ってます。


そして、江戸時代といえば、私の興味は橘曙覧。幕末の人ですので。

いちおう、橘曙覧という人は狂歌の歌人ではなく和歌の歌人、ということになっているんだと思ってます。
ご本人が「橘」を名乗ってらっしゃるくらいだし。

でも、橘曙覧って、田舎の国学者として清貧の生活を送っていた人なんですよね…。
私のイメージでは「菜根譚」の後集を具現化したような人が江戸時代末期の北陸に生まれて和歌を詠んでた、というような…。
都のお公家さんとは程遠い日常だったんではないかと。
だから、私は橘曙覧の歌が好きなんですけどね。

で、橘曙覧の歌の中には、これって狂歌に近いんじゃないか?というような歌もあったりします。
「独楽吟」がわかりやすいので、そこから一首、引用してみます。


591. たのしみは いやなる人の 来たりしが 長くもをらで かへりけるとき


「嫌な人がやってきた。でも長居せずに帰って行った。やったーっ!!」っていう歌、ですよね。
この歌って、狂歌っぽくありません?


本日はここまで。

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2010年4月 3日 (土)

橘曙覧を読む

橘曙覧全歌集(岩波文庫)を買ってしばらくになります。
読めば読むほど面白いので、自分なりの解釈や感想を書いてみようと思いました。

p.27より

      阿須波山にすみけるころ
1.あるじはと 人もし問はば 軒の松 あらしといひて 吹きかえしてよ

(大意)
「主人はいるか」と訪ねてくる人がいたら、軒の松よ、「在らじ」といわんばかりの嵐を吹き返してくれ

(感想)
家業を弟に譲り、山に住んでからの歌なんだそうです。厭世歌というか、人里を離れて山に隠れ住んでいる、人に会いたくない、という歌です。それにしても「嵐」を吹きかえさせて面会を拒絶するとは何とも激しい表現ですけれど、軒の松に託してその激しさをやわらげているようにも思えます。

      秋のころ、人しげく木にけるにわびて
2.顔をさへ もみぢに染めて 山ぶみの かへさに来よる 人のうるささ

(大意)
酒に酔った赤い顔で山歩きの帰り道に我が家に立ち寄ってくる人は、うるさく迷惑なものだ

(感想)
これも他人を拒絶する歌です。でも拒絶されているのはただの人ではなく、酔っ払って無神経にやってくる人たち。酔っぱらいを「顔をさへ もみぢに染めて」とユーモラスに表現することによって、拒絶の厳しさをやわらげているように思えます。紅葉はもちろん山の縁語でしょう。せっかく人から離れて山に住んでいるのに、千鳥足で家にやってきて大声で呼ばわる知人に困惑している主人。うるさいのはすっごく迷惑、だけど知人の目の前で戸を閉ざすこともできず、仕方なしに応対して、ぼそっとつぶやいた歌のように私には思えます。

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2008年9月17日 (水)

着物ではなく、泡盛の話

久しぶりの更新なのに、今回は着物ではなく、泡盛の話です。

沖縄の酒といえば泡盛ですが、私は残念ながらまったくお酒が飲めません。
でも私の夫はお酒が好きで好きで、好きがこうじて酒造所に勤めるようになってしまいました。

お酒が飲めない私は、お酒の味はわかりません。
でも、お酒のにおいなら、わかります。
夫が飲んで帰ってきたら、その口臭(すみません)で飲んだ酒の銘柄がわかるほど。
なーんて、もちろん、百発百中とはいきません。
でも、夫の勤務先で作っている「國華」を飲んだ場合は、ほとんどわかります。
それこそ華のような、果実のような、ほんのり甘いにおいがするんです。

沖縄にたくさんある泡盛の酒造所、みんな違う味、においの泡盛を作っています。
お酒は百薬の長、でも飲みすぎては百害あって一利なし。
健康を害しない程度に飲んでいただきたいなぁ、と思います。

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2006年8月15日 (火)

近世沖縄の和歌(短歌)

沖縄で短歌が詠まれるようになったのは琉装が和装になった時期、つまり
ここ100年ぐらいの歴史じゃないのだろうか、となんとなく思っていました。
ところが、偶然、宜湾朝保(ぎのわん ちょうほ・・・「ぎわん」と読むのが
一般的なようですが、ここではあえて「の」を入れた読みにしておきます)と
いう人が「沖縄最高の歌人」と呼ばれていることを知りました。
(琉球の歴史とか、勉強が足りません、はい。)

宜湾朝保(1823-1876)は、琉球王朝時代末期の人物。
琉球王朝の高級士族の家柄で、三司官という最高職にありました。
政治的にはいろいろな評価がある人ですが(琉球国王を琉球藩王にする、
という藩王の勅命を明治天皇からもらってきた人なので、独立国家だった
琉球国を日本の一地方、県に成り下がらせてしまった張本人、という説が
あります・・・これがすべて朝保の責任なのか、私にはよくわかりません・・・)
歌人としては「沖縄集」(1600年代後半から朝保以前の、沖縄の歌人36人の
歌をまとめたもの)、「沖縄集二編(朝保の同時代人の歌をまとめたもの)」と
いう琉球王朝和歌の集大成というべき歌集を編み、個人としても「松風集」
という歌集が(遺稿という形ではありますが)残されています。
朝保は、琉球王朝の藤原定家、とでもいうべき人だったのかもしれません。
「松風集」から、一首だけ引用しておきます。

   朝なあさな鳴きふるしても新しく聞こゆるものは鶯のこえ

以下は私の感想。
沖縄では、よく、朝にウグイスの声を聞くような気がします。
(うりずんの頃・・・初夏に。今の時期には、もう鳴いてないですが。)
毎朝、毎朝、聞いても、ウグイスの声は朝を新鮮な、さわやかな気持ちに
させてくれるんですよねー。朝から、ちょっと得した感じ、というか。
この歌を読むと、そういう気持ちを思い出します。

琉球王朝の話に戻ります。
「沖縄集」「沖縄集二編」に名を連ねている歌人は、琉歌人としても知られて
いるのだそうで、和歌と琉歌の、いわば両刀使いが琉球王朝には多かった
ということになるのだと思います。明治七年には和歌、琉歌、漢詩の盛宴が
王宮で催されたという記録もあるのだそうで(朝保が和歌と琉歌の点者を
つとめたすです)、中国と日本と両方の文化をとりいれていた琉球王朝人に
は、多彩な教養人が数多くいたことが伺われます。

・・・私ももっと沖縄方言を勉強して、琉歌に挑戦してみようかなぁ。
漢詩は無理でも、英詩ならなんとかならないかなぁ、と思ったり。

(参考図書:近世沖縄和歌集 1990年 ひるぎ社)

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2006年8月 3日 (木)

ブログのカテゴリー変更

ブログのカテゴリーを変更しました。
何をどう変更したのかと言いますと、これまで「短歌」というカテゴリに一括して入れて
いた、奥村晃作の短歌と自作を別のカテゴリーに分けました。
奥村晃作の歌と自分の歌とを「短歌」として一括するのは変と思ったんです。

理由として奥村晃作の短歌を今後も読み解いていきたい、ということがあります。
奥村晃作の短歌に出会って、ずっと冷めていた短歌熱が再燃しました。
今回のカテゴリー変更(新設)は今後しばらくはオクムラ短歌マニア(笑)でいます、
という宣言みたいなものです。

オクムラ短歌のマニア、もとい、愛読者としてはまだまだ日が浅い私ではありますが、
現時点で3つの仮説(?)を持つに至っております。

1.奥村晃作の短歌は退職後の方が断然、おもしろい。
2.歌集については最近作が最高傑作、現在も日々進化し続けている。
 (歌三昧の生活で、歌人として真に生きることになったのでは。)
3.現代日本にあふれる退職老人の歌と、奥村晃作の歌は似ている所もあるが、
根本的に違っている所もある。

・・・といっても、これらの仮説は検証されないままで終わるかもしれません。(苦笑)

最初に入手した第10歌集に続いて、第1歌集から9歌集までの自選歌集「空と自動車」
を手に入れ、その後は第8,9歌集である「ピシリと決まる」「キケンの水位」と「奥村晃作
歌集」(第3歌集「鴇色の足」が全部入ってます)を入手し、更にネット古書店で歌論集
「抒情とただごと」も入手しました。
奥村晃作の短歌については、これからも書きたいことがたくさんあって、楽しみです。
(自分の短歌については・・・まぁ、今はそっとしておいて下さい。)

(注:この記事の公開は8月3日ですが、その後も少しずつ書き直しています。)

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2006年4月 7日 (金)

ブログのタイトル変更

ブログのタイトルを変えました。
雑記帖のつもりで始めたのに、もっぱら着物のことばかり書いてるので。

「きものみち」は壇ふみさんの着物本からの借用。
借用元である世界文化社「壇流きものみち」は素敵な本です・・・おすすめ。
着物をきた壇さんの写真はこれぞ気品ある和風美人!という感じでうっとりさせられます。
しかも、単なる「和装の女優さんの写真集」に終わっていないところがすごい。
壇ふみさんの気どらないエッセイで美人女優のイメージをあえて壊しています(笑)
写真だけ、文だけ、ではない、本の面白さが堪能できます。

素敵な着物を、ナイチャー(沖縄県外)のものだけにしておきたくない、と思います。
沖縄には紅型や花織や芭蕉布や久米島絣や宮古上布などなど、全国に誇れるような
染織工芸品があるのに、それらはすっかり高価で手が届かない工芸品になってしまい、
沖縄での日常着としては廃れてしまっているのが、残念です。

和装そのものが沖縄に根付いたものではないとは思います。本来は琉装でしょう。
でも、現在生き残っている琉装は記念写真や琉舞だけ、日常の衣装には、ほど遠い。
沖縄琉装苑の石川さんによると、沖縄には「琉装を捨て」た歴史があったとのこと。
時代的にはおそらく「琉球」が「日本」になった時期、日清戦争以降じゃないかと思います。
そうして戦前には琉装が和装になり、戦後には洋服になっていった。

私の舅(夫の父、70代)は子供の頃、芭蕉布を普段着として着ていたそうです。
おそらく祖母が織ったものか、親戚などから譲り受けたもの。
洗濯はシークワーサーの汁でしていたとのこと。
そのためでしょう、近所ほとんどの家に芭蕉とシークワーサーが植えられていたといいます。
琉装では男だけが帯をして、女は帯をしないとか。
舅の祖母は帯をしない琉装だったので、子供心に不思議に思って尋ねたそうです。
「どうして帯がないのに、前がはだけないの?」と。
祖母はふざけて「女は腰の脇に穴があって、そこに入れてるんだよー」と答えたとか。

石川さんの話では、琉装は原則、二部式。胴衣と巻きスカートもしくは、胴衣ともんぺ。
スカート(orもんぺ)の腰紐にたくしこんでいたのでしょう、ということです。

そんな衣装の伝統も途切れてしまった所に、現在の私たちがいます。
まずは沖縄風の和装を少しずつ。
そしてできれば日常着としての琉装も、と考えています。

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