2007年5月12日 (土)

「高水位」

高水位            奥村晃作(短歌研究2007年5月号

「四万十になんにもない」と船頭はまず言い屋形船を動かす        (1)

冬枯れの四万十川の岸辺には超早咲きの菜の花の群れ          (2)

四万十にボンベ付け漁不可なりと魚介を過度に獲られたくなく        (3)

四万十の岸辺の砂利の採取をば禁じていると、岸の砂利山        (4)

高水位示す芥が四万十の岸辺の木々の絵に絡み付く           (5)

「山と山とのあいだ流るる四万十の川幅、山と山とのあいだ」         (6)

護岸工事しないとぞ聞く四万十の温暖化進み危うくないか            (7)

公私の忙しさにまぎれつつ「ただごと歌の系譜」から導かれた「橘曙覧全歌集」をポケットに入れて読みふけり、しばらく奥村晃作短歌ワールドを訪れるのも忘れていました。

で、久しぶりにのぞいてみたら、とてもおもしろい連作を発見したので、勝手ながら転載させて感想まで書かせていただいてしまいました。

四万十川、私は見たことがありません。(そもそも四国に行ったことがありません。)私が知っているのは美しい川らしい、ダムがないらしい、俵万智がなんか関係してたような、ということぐらいです。その程度の予備知識ですし、私の偏見と解釈が思いっきり入ってますので、歌の味わい方も間違ってるかもしれませんが、どうかご容赦を。

さて。この連作から感じられたものは「自然と人為の対比」です。(私の大好きなテーマです、もちろん。)何が自然で何が人為か、というのを表面的に解釈すると、以下のような感じになります。

  手付かずの自然代表:四万十    自然の脇役:菜の花、魚介、砂利、山など

  (日本文明による)人為代表:船頭と屋形船、ボンベ付け漁、護岸工事、などなど。

でも、そういうシンプルなわかりやすさに隠された、もっと深いものが一首一首の歌の中にはあるように思います。

(1)で「四万十になんにもない」という船頭。手付かずの自然を自慢しているのか謙遜しているのか。(どちらかというと前者じゃないかと思う。)その船頭と屋形船の存在そのものが「なんにもない」という言葉と矛盾している(「船頭と客が乗った屋形船」があるじゃないか!)ことを自覚していない船頭の言葉に、人と自然とのよじれた関係(手付かずの自然は観光化された時点で手付かずではありえない)を連想してしまうのは私だけ・・・?

(2)は一見、自然だけを詠んだ歌。でも「冬枯れ」なのに「超早咲き」の「菜の花の群れ」があるあたりが、人為のなせるわざか、異常気象のゆえんか。この一首のポイントは「超」ですね。「ちょー早咲きじゃん、この菜の花、っていう感じー。」

(3)は、漁獲高制限のために「ボンベ付け漁」を「不可」としてるところが人為です。その理由はもちろん自然保護のため、なのでしょうが、わざわざこういう保護をしなければならない、保護をしているところに、もう既に手付かずではなくなってしまっている自然のねじれたあり方がみえます。ダムはなくとも四万十は管理された自然、というわけです。

(4)も、砂利採取を禁じるという「人為的な決まりごと」の結果として存在している「岸の砂利山」を捉えています。人為なくして自然があり得ない、という状態への違和感。

(5)は・・・「芥」って、ゴミやチリのことですよね。ゴミやチリが岸辺の木々にからみつくことで、清流四万十の最高水位を示しているなんて・・・自然の美しい光景(絵)が人為の極みたるゴミで台無しにされている、ゴミも含めての景観である、と言っているかのように思えます。

(6)は、自然を単位として測定する自然。測定、という要素は人為的ですが、この歌のメインは雄大な自然。自然の広がりを感じました。でも全体が「」(カギカッコ)でくくられているのはどうしてなのでしょう。カギカッコの中におさまる雄大な自然。本物の自然ではなく、縮小された自然、ジオラマを見ているような感覚になります。

(7)では、なぜ護岸工事しないと温暖化が進むことが懸念されるのか、私にはよくわかりません。でも、この歌には護岸工事という人為がないと「危うくないか」という自然の姿が描きだされています。自然の脆弱性、人為によって自然を管理したいという願望がストレートに歌われています。

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2006年8月28日 (月)

砂時計小

    我慢してサウナに汗を流すべくひっくり返す砂時計<小>
                                 奥村晃作

8月22日の読売新聞の夕刊に載った歌だそうです。

タイトル、すなわちこの歌の最後の句を、思わず「すなどけいグワー」と読んでしまって、
いや、まさかそんなはずはない、と「すなどけい しょう」と読み直しました。
・・・沖縄の人にしかわからない読み方をしてしまって失礼いたしました。
私は沖縄方言に詳しくはないんですけど、漢字で表記された沖縄方言では
「猫小」は「マヤーグワー」「鳥小」は「トゥイグワー」と読むんだと理解してます。
だから「砂時計小」は「すなどけいグワー」となるわけです。

「しょう」ではない、沖縄方言の「グワー」の語感をもうちょっと説明します。
「グワー」というのは沖縄方言の接尾語で「○○ちゃん」と呼ぶような親しみ、
愛称で呼ぶような感情がこもる言葉です。猫(マヤー)をマヤーグワーと言ったり、
鳥(トゥイ)をトゥイグワーと言ったりするというのは上に書いたとおりですが、
お年寄り家庭の縁側で「お茶グワー飲んで行きなさい」と若い人が言われたり、
いう風にごく気軽に使われる接尾語です。「まぁ、ちょっと座ってお茶でも飲んで」
というニュアンスですが、田舎のお年寄りならではの厚情たっぷりの命令口調に
「グワー」という接尾語は、よく似合います。

話がそれました。
そういう訳でこの歌を最初に読んだ時の印象はいうなれば「砂時計ちゃん」(笑)
小さな砂時計への親愛の情を(作者の意図とは別に)感じてしまったわけですね。
奥村晃作には

    ロッカーを朝昼さすり磨いたらニコニコ笑うよロッカーちゃんも

という歌もあることですし。
「ロッカーちゃん」があるんだったら「砂時計ちゃん」もあり、かな、と。

それから、縦書きの醍醐味なので横書きでは伝えられないんですが、この<小>という、
かぎ括弧ではない、<>で上下を囲まれた文字が、見ているうちに砂時計の形に
見えてしまいました。(深読みしすぎ?)
・・・やっと砂が落ちきった、さぁ、またひっくり返そう。
そんな状態の、小さな砂時計・・・に見えません?どうぞもう一度、ご覧下さい
こうして上下を<>で囲まれないと、そんなことは思いつきもしなかったでしょうが。

サウナで汗を流しつつ小さな砂時計を見つめ、砂が落ちきった所でひっくり返す。
男、忍耐、汗、サウナの熱気、という実に暑苦しい(失礼!)イメージと、
そのすべてを律する、小さな砂時計。
規則正しくなめらかに落ちる細かい砂の静けさ、爽やかさ。

もう一回、転載しておきますね。

    我慢してサウナに汗を流すべくひっくり返す砂時計<小>

この歌には、たくさんのコントラスト(対比)が含まれています。
(・・・私に読み取れたものだけ、書いて行きます。)
まず上に述べた、暑苦しさ(サウナ)と爽やかさ(砂時計)のコントラスト。
それから、サウナの熱気の中でじっと我慢して汗を流す、という力強く静的な行動と、
砂時計をひっくり返すという、ささやかながらも動的な行動のコントラスト。
サウナで我慢するのは全身ですが、砂時計を動かすのは手先、というコントラスト。
前者の行動は「流すべく」という文語で重々しく表現されているのに対して、
後者は「ひっくり返す」と口語で軽く、表わされています。

この「ひっくり返す」の語感と位置がまた、絶妙です。
「我慢」と強い言葉で始まった歌が「流すべく」と強い意思表示をされて
(苦しいが汗を流したい、流さねばならぬのだ!という感じでしょうか)
ますます力が入った所で、唐突に「ひっくり返す」という口語が来る。
ここで歌の流れ、歌の焦点が重みから軽みへ、大から小へ、ひっくり返されてしまう。
あたかも、砂時計を逆さにしたように。

面白いなぁ、と思います。
「ひっくり返す」で、読み手としては完全に意表をつかれてしまっているんですよね。
「流すべく」に続く言葉としては、まったく予想できない。
そこでくるっ、とひっくり返ったような印象を受けるのでしょう。

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2006年8月 5日 (土)

奥村晃作の短歌観と短歌

奥村晃作が自身の短歌観を闡明(せんめい)にしています。
(7月18日、7月30日の日記など。)
とても興味深く読ませていただいたので、以下に感想と、関連していると思われる
歌をあげてみます。

①②⑤は、なるほど~と納得しました。
(①や②が何か、というのはぜひ原文をお読み下さい。)
特に①。文語が骨格にあって口語が必要に応じ、あるいは自在に混じる、
というのにはとっても納得しました。たとえばこんな歌。
(以下、歌はすべて奥村晃作の第十歌集「スキーは板に乗ってるだけで」からの
引用です。)

  にんげんが勝手に作った台杉の奇っ怪な姿(なり)初めて目にす

「(勝手に)作った」と口語で始まり「目にす」と文語で終わる歌です。
「作りし」ではないし「目にする(した)」ではないから口語で始まり文語で終わる、と
言っていいんだと思うんですが、まったく違和感なくおさまっていますよね。
「文語口語混合体(短歌)」の見本と言っていいかと思います。
なお、この歌は奥村晃作得意の、人為と自然を詠み込んだ歌でもあります。
ちなみに奇怪ではなく「奇っ怪」というのは④表記のレトリック、でしょう。

でも、奥村晃作の歌って実は案外、文語の歌が多いんです。
文語の歌でも決して時代がかった古めかしい文語ではなく、現代人にも
違和感なく通用する文語が多いので、さらっと読んでしまうと文語だったと
いうこと自体が、判別しがたいほどです。

奥村晃作の歌は、文語と口語が一首の中でもごく自然に共存していますし、
歌集の中でも文語の歌が多いとはいえ要所要所に印象的な口語の歌が効果的に
配置されているので、まさに文語口語混合体、なのだと思いました。

②⑤は指摘され、ホントだ、って思いました。
句またがり、句割れがごく自然に入ってくる、字あまりなのに不自然じゃない歌が
「ただごと歌」というのにも納得です。
句またがりになってる歌を、一つ挙げますね。

   目下ひゃくろく連敗のハルウララひゃくなな連敗に向けて挑まん

最初っから句またがり、二句目が句割れ、という歌です。
でもこれ、実に効果的な句またがりなんですよー。
ハルウララの106連敗が107連敗になるかも、ということを歌っていて、
106の「ろく」が句またがりによって強調されて、下の句の「ひゃくなな」
連敗が生きてくる。
(話がそれますが、この歌、私、大好きです。「ひゃくろく」「ひゃくなな」とくり返し、
しかもひらがなで表記することによってハルウララのヘナチョコ連敗馬っぷりを
見事に表現した、技巧とユーモアと皮肉たっぷりの時事詠に拍手!)

次は⑤として書かれていた、五句32音になっている歌の例をあげます。

   地下深き風穴(ふうけつ)の室(へや)広くして繭玉保冷(まゆだまほれい)に
   かつて用いし

数えてみてください、第四句が8音なので、32音ですよね。
繭玉保冷、という言葉がこの歌における要の一つであり、助詞の「に」も省くこと
が許されない、だから32音になった、という必然性が理解できます。
暗くて広くて涼しい風穴の中に、かつて置かれていたという繭玉のイメージが白く
浮かび上がってくる・・・そんな歌だと思っています。

③は好み、だと思います。私はあまり好きじゃない・・・というか、良いオノマトペだと
感じるものが少なく、残念ながら耳障りな音に響くことの方が多いのです。
本当に優れたオノマトペはガンガン入れて欲しいんですが、このガンガン入れて、
というのは悪い見本の一つです(笑) 
まぁ確かに現代風な感じは出ますし、短歌の「音楽性」を象徴するものだというのは
理解できるんですが、必ずしも現代短歌の要件に入れなくても?というのが私のごく
ごく個人的な感想です。
それでも、良いオノマトペだと私が思う歌を、一首あげておきます。

   カミソリを当つればスッと切れそうな蛙の白き咽(のみど)と腹(おなか)

冷たいカミソリと、蛙の冷たく白いノドとオナカには「スッ」というオノマトペがぴったりです。
別段、独創的なオノマトペではありません。でも、ぴったり、なんです。
ありがちなオノマトペを使って、ありふれてない短歌に仕上がっているのは、奥村晃作の
手腕ならでは、でしょう。

そして、詳細に解説されている④。
・・・これこそが奥村晃作の短歌の真髄であり、シロートが不用意に真似できない
部分なんだろうなぁ、と思いました。
「決まっている」「正しい」という確信は「<わが歌>得たり」という現在の奥村晃作の
ものだと思うんです。助詞一つだけではなく、全てについてというのだから、なおさらに。
奥村晃作の短歌の魅力はこの「④表記のレトリック」に隠されている、ような気がします。

「表記のレトリック」は単なる「表記」「レトリック」ではなく、短歌の心が実体化する
姿かたち、いうなれば短歌の魂(たましい)のあらわれなのではないか、と思うんです。
この「奥村短歌魂(おくむらたんかだましい)のあらわれ」について、奥村晃作自身の
解説は、他人には何ともわかりにくいものになってしまっています。

・・・いや、わかりにくくて、それでいいんだと思っています。
こんな大事な、容易でない事柄が誰にでも簡単にわかるはずがない。
わかってしまうんだとしたら、世の中おもしろくないです。
魅力ある謎は、人生の秘宝でしょう。

表記のレトリックについて、僭越ながらつけ加えるとしたら、奥村晃作の歌における
ひらがな、漢字、カタカナの使用、特にカタカナ表記について、特徴のようなものが
あるんじゃないかと思っています。うまく言えないんですが。
カタカナ表記にすること自体、とても意識的(技巧的?)に行われている感じがします
し、カタカナ表記の外来語の使用はとってもレトリック!という感じです。
一般に、カタカナ表記の外来語(ジャパニーズ・イングリッシュとか和製英語とか言わ
れる言葉も含む)の混在は現代短歌には欠かせないものじゃないかと思います。
(欠かせない、と断言できないのは私がそれほど現代短歌を勉強してないからです)。
下手に多用すると悪趣味、でもうまく使うと効果的、という点ではオノマトペと似てる
かもしれません、カタカナ外来語は。
でも奥村晃作の短歌にはカナ表記外来語が絶妙に使われていることが多いです。
たとえば・・・二首、引用します。

  プラトニックラブ、純愛と言うけれど根底にある性の欲望

  部分的ホロコーストならやるだろうファルージャの人ら蜘蛛の如く散れ

前者はカタカナ語を使って同義反復していますが、日本語だけで反復するの
と違って、洋の東西を問わないというか、流行の言葉でいうと「グローバルな」
効果がありますよね。やたら美化することへの反感というか、美名をつけてごまかす
ことに対する問題意識が、グローバル(笑)な異語同義反復で強調されている、と
いう印象を受けました。
後者はホロコースト、それも「部分的ホロコースト」という造語(?)が、効いています。
ニュースで現地の様子を知るだけの日本の一市民が、戦時にあるファルージャの
人に思いを馳せるのであれば、「部分的」であっても「ホロコースト」があり得ると
いう認識を持つべきでしょう。迫力のある時事詠だと思います。

長く、まとまらない文章になってしまいました。今日はここまで。

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2006年7月11日 (火)

奥村晃作 空と自動車

またbk1で奥村晃作(やはり敬称は略させていただきます)の歌集を買いました。
空と自動車」です。

第一歌集から第九歌集まで、500首を自選した歌集だそうです。
最近作にて現時点での最高傑作である(と私は思っている)第十歌集が入って
いないのは残念な気もしますが、まぁそれは言ってもせんないこと。

それにしても、空と自動車とは。
いいタイトルをつけたものだと思います。
どちらも私の大好きなものです(笑)・・・いや、それだけじゃなくて。
奥村晃作の短歌には自然と人為のコントラストを見事に描出したものが
いくつもあると私は思っているので、空(自然の代表)と自動車(人為、
人工物の代表)というタイトルは、実にしっくりきます。

・・・たとえば、こんな歌。

  ヤクルトのプラスチックの容器ゆえ水にまじらず海面(うなも)をゆくか

ヤクルトの容器、といえば誰でも独特のくびれを持ったあの形を思い浮かべられ
ますよね。ここ数十年の日本を代表する人工産物の一つでしょう(笑)
それが、海面という自然界にプカプカ浮かんでいる、という歌。
海に浮かんでるんですから、空の容器であることが伺われます。
また超乱暴に要約すると「海に浮かぶゴミを詠んだ歌」なんです。

でも私なぞは、ここで思いっきり深読みしてしまいます。
ヤクルトの空容器の形を借りて、人間という存在を歌っているんじゃないか、と。
もとは自然から生まれたものだったはずなのに、もはや自然界に溶け込むことが
できない、ヤクルトの空容器・・・すなわち人間。そう思いませんか?
(もちろん作者の意図は別として、こういう読み方ができる、ということです。)

大海原に抱かれても異物として排除され残ってしまうプラスチックの小さな容器。
これっぽっちの、ちっぽけな存在なのに、容易に自然に還ることができない。
なんだか孤独で、哀れで、だけどちょっとだけ笑える存在ですよね。

要所に配されたヤ行やマ行の音で、波間を漂う不安定さ、海の包容力が
表現されており、その中で「(ヤ)クルト」「プラスチック」のカタカナ文字と
硬質な音が、異物としてのコントラストを際立たせていると思います。

類歌というのでしょうか、同じ歌集内にちょっと似てるけど違う、こんな歌も
あります。

  ペットボトル春の潮(うしお)に漂うはペットボトルの科(とが)にはあらず

この歌では、浮かんでいるのはペットボトル。ヤクルトの容器より大きいですね。
でも、ヤクルトの容器はどう転んでもゴミにしかなりようがない物なのに対して、
ペットボトルといえば今の時代の華、リサイクル資源物の代表のような物です。
それがリサイクルされることなく、むなしく春の海に漂っている。

この歌は「ゴミになって海に浮いているのは、ペットボトルそのものせいじゃない
んだから、ペットボトルを責めるな」と言っているように読めます。
・・・そうなんだとしたら。
責められるべきは誰なんだろう?と思わずにいられないんですが。

普通に考えたら「捨てた人」ということになるんでしょうが、それだけじゃつまらない。
・・・ということで、考えてみました。

ここで科(とが)を負うべきなのは
1.便利な容器としてペットボトルを必要とする人
2.ペットボトルを作る人
3.ペットボトルによって商業的活動をする人
4.ペットボトルの中に容れられた水分で喉の渇きをいやす人
5.使用後のペットボトルをリサイクルせず無造作に捨ててしまう人、

この、みんなじゃないかと思うんですよね。
この歌を読むと、なんとなく、そんな風に思えてしまいます。
海のペットボトルという対象をただ描くことによって、かえってこちら側、つまり
現代人に従犯感覚のようなものが呼び起こされる・・・んじゃないかと。
(そんな風に思うのは私だけですかね?)
ほとんどの人は無関係じゃない、って。

ちょっと話がそれるかもしれませんが。
この歌には内田樹いうところの「とほほ主義」が表現されてるのかも、と思います。
内田樹「とほほ主義とは何か?」から引用します。

>(前略)そこには「身内の恥」を語ることへの「含羞」がある。
>そのような現状の出現を阻止しえなかったり、時にはそれと
>知らずに加担してきたおのれを責める気持ちがあり、その一方
>では「結局、これがおれたちには似合っているんだよ」という
>やけっぱちな居直りがある。
>この「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決ま
>らなさ」が私が「とほほ」感覚と呼ぶものなのである。

うーん。引用してみると、ちょっと違うような気もしないではないですが。
まぁとにかく、どこかで自分も無責任ではないと感じているような、でも基本的
には他人事としてそれを見ているような感じ、というのでしょうか。
ペットボトルと海のことしか書いていない歌なのに、そういう半端な感じ、曖昧な
感じというのがこの歌には表現されているように思ってしまうんです。

奥村晃作の歌は「認識の歌」ということですが、第三者的(客観的)な認識と
連帯責任を負う当事者意識、両方が、上のペットボトルの歌にはあると思うん
ですよね。
まぁ、この場合の当事者意識、というのは広い意味で、今の時代に生きる者と
しての時代認識、なのかもしれませんので、そうなると二重の意味で「認識」の
歌なんだと思います。

ヤクルトの容器もペットボトルも、通常の感覚では景観を損なうゴミとして、
無視されそうな物体です。
目に入らず(もし目に入ったとしても見なかったことにして)、海や潮だけを
歌に詠むのがいわゆる「普通の」作歌態度かもしれません。
それを、自然と人工物の対比として詠みこんだ「普通じゃない」短歌ですよね。

まぁ、ここでとりあげた二首は愛唱するような歌ではないのかもしれません。
でも一度読んだら、そのイメージが目前にあらわれて網膜に焼きつき、
天国と地獄を同時に目にした、というと大げさかもしれませんが、
一瞬、美醜入り混じったものに幻惑され魅了されてしまったような、
不思議な感覚が心にもやっと残る・・・残りませんか?
感じ方は人それぞれでしょうが、そんな歌だと私には思えます。
面白い、力のある、歌だと思うんです。

他にも面白いと思った歌がいくつもありまして、その面白さを自分の言葉で説明
できそうな気がしたら、またこちらで紹介してみたいです。

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2006年5月27日 (土)

奥村晃作 スキーは板に乗ってるだけで(2)

コメントもらって元気100倍(アンパンマン?)、奥村晃作(依然として敬称略にて
失礼いたします)の短歌読み込み、第2弾です。
同じく歌集「スキーは板に乗ってるだけで」から、鶏肉レンジ料理の歌を。

   皮の付く鶏胸肉(とりむねにく)に青ネギを載せてラップしレンジでチンす

乱暴に要約すれば、鶏肉を電子レンジで料理する歌、です。
この歌が理解できない、という人は、鶏肉とネギの煮物料理をレンジで作って食べ
た経験がないだけなんじゃないか、と思います。
・・・すみません。こういう書き方では何もわからないですね。詳しく説明します。

電子レンジで作る鶏肉の煮物って、手軽で、それはそれはおいしいんですよ。
私の手元にある電子レンジ料理の本には「鶏のこっくり煮」として載っていて、
子供が生まれる前、夫婦二人だった頃によく作っていました。
一人暮らしや夫婦だけなど、少人数のご家庭にお勧めの簡単料理です。
この料理の作り方をざっとお教えいたします。

【鶏のこっくり煮】
1.鶏肉(ムネでもモモでも、必ず皮付き)とネギをぶつ切りにする。
2.酒とみりんと醤油(1:1:1)と鶏肉を耐熱容器(ガラスがベストですが、
 陶器、レンジ可のプラスチックでもOK)に入れて混ぜ、ラップでぴっちり蓋を
 し、レンジで3分間調理する。
3.鶏肉を混ぜ、ネギを載せて再びラップし、3分間レンジで調理する。

これでできあがり。
(3分というのは鶏モモ肉1枚の場合です。時間は適宜、調整して下さい。)
レンジの扉を開くと、ラップをとる前から醤油と鶏肉の良い香りが漂ってきます。
熱いので気をつけて下さいね・・・って、いつの間にか料理ブログになってる?(笑)

とにかく、ネギの甘みと鶏皮の油分がほどよく混じって、おいしい料理なんですよ。
レンジを利用してできる、スピード料理の代表格じゃないかと思います。
上に書いたように、とにかく簡単な料理です。簡単すぎるくらい。
なのに美味。こんなに手軽で、こんなにおいしくていいのか!?みたいな。

鶏肉レンジ料理のおいしさについて、簡単ですが、ご理解いただけたでしょうか。
さてここで、最初にあげた短歌をもう一度、読んでみましょう。
しつこいですが、目で読んで意味をとるだけじゃなく、ささやき声でもいいから、
音をちゃんと感じて読んで下さいね。

   皮の付く鶏胸肉(とりむねにく)に青ネギを載せてラップしレンジでチンす

鶏肉レンジ料理の反則的な手軽さ、が見事に表現されているように思えません?
特に青ネギから後、カタカナ語の連続した軽快なリズムが現代風。
流行のラップ(音楽の方です、ヒップホップともいいます)にのせて踊れそうな
くらい・・・って私はそんな踊りはしませんが、それくらいリズム感がありますよね。
このリズム感(軽さ?)もある意味、反則的なのかも。

更にこの料理を作ったことがある人、味を知っている人にとっては、この短歌の
余韻として、容器の熱さ、蒸気と共に漂ってくる香り、などがたちどころに思い
出されて、あー、おいしそう!食べたい!となるんですよ~。
この余韻を味わってみたい方は上のレシピを基にぜひ、作ってみてくださいね。
作って食べてみることで、この短歌の味わいは確実に深くなります。

電子レンジを使えば、短時間で軽々とおいしい料理を作ることができてしまう。
この手軽さを批判するのではなく、無視するのでもなく、ただ、ありのままに描写する。
良かれ悪しかれ、私たちはこういう時代、こういう環境の中に生活している、と。
今の時代ならではの生活詠、だと思います。

・・・一連の鶏肉レンジ料理の歌を、続けて味わってしまいましょう。
歌集の中で次に並んでいるのはこんな歌です。

   鶏肉の臭い消すため青ネギに生姜も載せてレンジで熱す

鶏肉レンジ料理、試行錯誤の歌、でしょうか。
作ってみたけれど、どうも、鶏肉の臭みが気になる・・・。
(もしかして私のレシピとは違い酒・醤油・みりん抜きで調理してたとか!?)
生姜を載せて臭みを消したらもっとおいしくなるんじゃないか?と生姜を加えて
鶏肉レンジ料理に再挑戦した、という歌なんだと思います。

簡単な料理でも、人間って欲深なもの、もっとおいしくできるならしたい、と
思いますよね。そこで生姜を載せるという、ささやかな工夫をしてみた。
そう解釈すると、人間の創意工夫精神について、鶏肉レンジ料理を材料に表現
した歌・・・なんて風にも、深読みできてしまう。
でも次の歌は同じ鶏肉レンジ料理でも、また別の料理だと思います。

   五分間レンジで蒸した鶏肉の指もてつまみよく裂けるなり

これは鶏肉レンジ料理といっても、蒸した鶏肉を裂く感動を詠んだ歌、です。
レンジで蒸した鶏肉って、いろんな料理の素材になるんですよ。
サラダや和え物など、味付けによって洋風和風中華風どれも可能です。
レンジ蒸し鶏は、鍋に湯を沸かしてゆでるよりも、旨みや栄養分が鶏肉の中に
残りますし、蒸し器を出して蒸気をたてて、などという、おおごとをしなくて
済む手軽さも現代家庭向けです。

そして、手で裂きやすい。
包丁なんていりません。肉の繊維に沿って、おもしろいぐらいに裂けます。
・・・ここまでが、この短歌の理解に必要な予備知識。

この「おもしろいぐらい裂ける」という感動が、奥村晃作によってこの短歌に
凝縮されているのです。
この歌によって表現されているのは、以下のようなことだと思います。

皿に載せた鶏肉に酒をふり、ラップをかけレンジに入れる。
(これは歌には表現されてませんが「蒸した」という所で酒蒸しと勝手に解釈してます。)
レンジの前で待つこと、5分。
扉を開け、ラップをはずし、指で持てる温度になるまで鶏肉を冷ます。
そして、裂く。よく裂ける・・・これはおもしろい。

一つの光景と新鮮な感情が、とてもわかりやすく表現されています。
21世紀の日本のある家庭での、ある時間。
日常的な台所での、なにげない光景。
ありふれた平凡な光景なのかもしれませんが・・・そこには、確実に、
感情を持って生きている人間の存在があります。
これをつまらない、退屈な光景、と思う人もいるのでしょう。
でも、平凡な日常の継続こそが幸福な人生、と思っている私のような一庶民
にとっては、身近で、しかもこの上なく幸福な、ほほえましい光景に思えます。

奥村晃作の歌には、日常の中の感動をストレートに再認識させてくれる力が
あるようです。
「再」認識、と書いたのは、知っているつもりでいた、わかっていたような気が
していても実は忘れていたことを、思い出させてもらったような気分だから、です。

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2006年5月23日 (火)

奥村晃作 スキーは板に乗ってるだけで

久しぶりに一冊の歌集を買いました。

奥村晃作(敬称略)の「スキーは板に乗ってるだけで」

第10歌集なのだそうですが、この人の歌集を買ったのは初めてです。
でも前から面白い歌を詠む人だなぁと思っていました。
あとがきに20年以上前の代表歌として紹介されていた歌を、転載します。

   ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペンを買ひに文具店に行く

どこで読んだのかはおぼえてないけど、読んだ記憶はしっかり残っている。
この強烈なインパクト。普通じゃない短歌によって描かれる、ごく普通の日常風景。

「三菱のボールペン、なんて書きやすいんだ!」と思って(?)
「よし、もう一本、買いに行こう」と文具店に向かう。
そういう心情と行動が容易に想像できる。
繰り返される「三菱」「ボールペン」で、いかに気に入っているかがわかる。
リズムもいいし、新鮮な感動が描かれている。
特定メーカー製品への愛着心をここまで的確に詠んだ歌なんて他に知りません。
面白く、新しく、良い歌だと思っていました。
が、これまで歌集を買うほどのご縁(?)はありませんでした。

今回、歌集を買ったのは、bk1で偶然、表示されたタイトルに興味をひかれたから。
タイトルに興味をひかれて表紙デザインも見てしまいました。
ナイスな表紙。タイトル文字が雪山をスキーで滑ってるかのごとく傾いている(笑)
これは買いたい!という気になってしまい、衝動買いしてしまいました。
衝動買いでも、大当たり。買ってホントに良かった。
亭主は「変な題の本~」と笑ってましたが「あとがき」を読ませると納得してました。

せっかくなので、タイトルになっている歌を紹介します。

   一日中雪山に滑り疲れなしスキーは板に乗ってるだけで

あ、目で読んだだけじゃダメですよー。
こっそり、ささやき声でいいので、声に出して読んでみて下さい。
それもいやなら、心の中でもいいです。一音一音、音律を感じてみて下さい。
短歌って「目で読む」だけでは味わうことができないと思います。
特に奥村晃作の歌は、そうです。

さて。読みました?
雪山で軽々とスキーを滑らせている気分になり・・・ません?
頬に当たる冷たい風や、スピード感、爽快感まで、この歌にはあるような気がします。
体力がない者でも若くなくても一日中、楽しめてしまう冬のスポーツ、スキー。
今、私がいるのは暑く湿った梅雨の沖縄なんですけど、一瞬、蒸し暑さを忘れます。

この歌集で他にも気に入った歌を、この場で紹介します。

   皿全体のほんのわずかの欠けなれど捨てるほかなし皿というもの

技巧だなぁ、と思うのは「ほかなし」と平仮名になっていること。
「捨てるほかなし」に「かなし」とほのかな感情が入って見える。

皿のことを詠んでいる歌なんですが、ホントに皿のことだけを歌っているのでしょうか。
すごく深読みすると・・・たとえば、人間のことを歌っているようにも読めます。
人間に、ちょっとくらい欠点があっても捨てて欲しくない、という風に・・・。
作者にはそんな意図はないのかもしれません。
欠けた皿を題材に、反語のような歌を詠んだつもりなんて。
でも、完璧主義に対するささやかな反感、反抗心のようなものは伺われますよね。

ほんの少し欠けた皿なんて、誰もが目にするものです。
こういう日常的に目にするものを題材に、さらっと詠んだ風でいながら、深読みも可能。

面白いなぁ、と思います。
あざらしの「タマちゃん」を詠んだ歌とか、いわゆる時事詠(その時々のニュースなどを
題材に詠んだ歌)も、マスコミ報道そのままじゃなくてちゃんと消化されてて、いいです。

   あざらしのタマちゃんどこかにいるのだがぜんぜん報道しなくなったね

さりげなく、さらっと、マスコミ批判ですよねー。
大上段に構えてないのもこの人のスタイルのカッコイイ所だと思います。

奥村晃作はwebでもご自分の歌を公開しておられます。リンクしておきますね。

奥村晃作短歌ワールド

個人的には、webで読むよりも歌集で読む方が面白さが増すので(なぜだろう)
少しずつ歌集を集めてみようと思っています。

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