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2006年8月 5日 (土)

奥村晃作の短歌観と短歌

奥村晃作が自身の短歌観を闡明(せんめい)にしています。
(7月18日、7月30日の日記など。)
とても興味深く読ませていただいたので、以下に感想と、関連していると思われる
歌をあげてみます。

①②⑤は、なるほど~と納得しました。
(①や②が何か、というのはぜひ原文をお読み下さい。)
特に①。文語が骨格にあって口語が必要に応じ、あるいは自在に混じる、
というのにはとっても納得しました。たとえばこんな歌。
(以下、歌はすべて奥村晃作の第十歌集「スキーは板に乗ってるだけで」からの
引用です。)

  にんげんが勝手に作った台杉の奇っ怪な姿(なり)初めて目にす

「(勝手に)作った」と口語で始まり「目にす」と文語で終わる歌です。
「作りし」ではないし「目にする(した)」ではないから口語で始まり文語で終わる、と
言っていいんだと思うんですが、まったく違和感なくおさまっていますよね。
「文語口語混合体(短歌)」の見本と言っていいかと思います。
なお、この歌は奥村晃作得意の、人為と自然を詠み込んだ歌でもあります。
ちなみに奇怪ではなく「奇っ怪」というのは④表記のレトリック、でしょう。

でも、奥村晃作の歌って実は案外、文語の歌が多いんです。
文語の歌でも決して時代がかった古めかしい文語ではなく、現代人にも
違和感なく通用する文語が多いので、さらっと読んでしまうと文語だったと
いうこと自体が、判別しがたいほどです。

奥村晃作の歌は、文語と口語が一首の中でもごく自然に共存していますし、
歌集の中でも文語の歌が多いとはいえ要所要所に印象的な口語の歌が効果的に
配置されているので、まさに文語口語混合体、なのだと思いました。

②⑤は指摘され、ホントだ、って思いました。
句またがり、句割れがごく自然に入ってくる、字あまりなのに不自然じゃない歌が
「ただごと歌」というのにも納得です。
句またがりになってる歌を、一つ挙げますね。

   目下ひゃくろく連敗のハルウララひゃくなな連敗に向けて挑まん

最初っから句またがり、二句目が句割れ、という歌です。
でもこれ、実に効果的な句またがりなんですよー。
ハルウララの106連敗が107連敗になるかも、ということを歌っていて、
106の「ろく」が句またがりによって強調されて、下の句の「ひゃくなな」
連敗が生きてくる。
(話がそれますが、この歌、私、大好きです。「ひゃくろく」「ひゃくなな」とくり返し、
しかもひらがなで表記することによってハルウララのヘナチョコ連敗馬っぷりを
見事に表現した、技巧とユーモアと皮肉たっぷりの時事詠に拍手!)

次は⑤として書かれていた、五句32音になっている歌の例をあげます。

   地下深き風穴(ふうけつ)の室(へや)広くして繭玉保冷(まゆだまほれい)に
   かつて用いし

数えてみてください、第四句が8音なので、32音ですよね。
繭玉保冷、という言葉がこの歌における要の一つであり、助詞の「に」も省くこと
が許されない、だから32音になった、という必然性が理解できます。
暗くて広くて涼しい風穴の中に、かつて置かれていたという繭玉のイメージが白く
浮かび上がってくる・・・そんな歌だと思っています。

③は好み、だと思います。私はあまり好きじゃない・・・というか、良いオノマトペだと
感じるものが少なく、残念ながら耳障りな音に響くことの方が多いのです。
本当に優れたオノマトペはガンガン入れて欲しいんですが、このガンガン入れて、
というのは悪い見本の一つです(笑) 
まぁ確かに現代風な感じは出ますし、短歌の「音楽性」を象徴するものだというのは
理解できるんですが、必ずしも現代短歌の要件に入れなくても?というのが私のごく
ごく個人的な感想です。
それでも、良いオノマトペだと私が思う歌を、一首あげておきます。

   カミソリを当つればスッと切れそうな蛙の白き咽(のみど)と腹(おなか)

冷たいカミソリと、蛙の冷たく白いノドとオナカには「スッ」というオノマトペがぴったりです。
別段、独創的なオノマトペではありません。でも、ぴったり、なんです。
ありがちなオノマトペを使って、ありふれてない短歌に仕上がっているのは、奥村晃作の
手腕ならでは、でしょう。

そして、詳細に解説されている④。
・・・これこそが奥村晃作の短歌の真髄であり、シロートが不用意に真似できない
部分なんだろうなぁ、と思いました。
「決まっている」「正しい」という確信は「<わが歌>得たり」という現在の奥村晃作の
ものだと思うんです。助詞一つだけではなく、全てについてというのだから、なおさらに。
奥村晃作の短歌の魅力はこの「④表記のレトリック」に隠されている、ような気がします。

「表記のレトリック」は単なる「表記」「レトリック」ではなく、短歌の心が実体化する
姿かたち、いうなれば短歌の魂(たましい)のあらわれなのではないか、と思うんです。
この「奥村短歌魂(おくむらたんかだましい)のあらわれ」について、奥村晃作自身の
解説は、他人には何ともわかりにくいものになってしまっています。

・・・いや、わかりにくくて、それでいいんだと思っています。
こんな大事な、容易でない事柄が誰にでも簡単にわかるはずがない。
わかってしまうんだとしたら、世の中おもしろくないです。
魅力ある謎は、人生の秘宝でしょう。

表記のレトリックについて、僭越ながらつけ加えるとしたら、奥村晃作の歌における
ひらがな、漢字、カタカナの使用、特にカタカナ表記について、特徴のようなものが
あるんじゃないかと思っています。うまく言えないんですが。
カタカナ表記にすること自体、とても意識的(技巧的?)に行われている感じがします
し、カタカナ表記の外来語の使用はとってもレトリック!という感じです。
一般に、カタカナ表記の外来語(ジャパニーズ・イングリッシュとか和製英語とか言わ
れる言葉も含む)の混在は現代短歌には欠かせないものじゃないかと思います。
(欠かせない、と断言できないのは私がそれほど現代短歌を勉強してないからです)。
下手に多用すると悪趣味、でもうまく使うと効果的、という点ではオノマトペと似てる
かもしれません、カタカナ外来語は。
でも奥村晃作の短歌にはカナ表記外来語が絶妙に使われていることが多いです。
たとえば・・・二首、引用します。

  プラトニックラブ、純愛と言うけれど根底にある性の欲望

  部分的ホロコーストならやるだろうファルージャの人ら蜘蛛の如く散れ

前者はカタカナ語を使って同義反復していますが、日本語だけで反復するの
と違って、洋の東西を問わないというか、流行の言葉でいうと「グローバルな」
効果がありますよね。やたら美化することへの反感というか、美名をつけてごまかす
ことに対する問題意識が、グローバル(笑)な異語同義反復で強調されている、と
いう印象を受けました。
後者はホロコースト、それも「部分的ホロコースト」という造語(?)が、効いています。
ニュースで現地の様子を知るだけの日本の一市民が、戦時にあるファルージャの
人に思いを馳せるのであれば、「部分的」であっても「ホロコースト」があり得ると
いう認識を持つべきでしょう。迫力のある時事詠だと思います。

長く、まとまらない文章になってしまいました。今日はここまで。

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