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2006年7月11日 (火)

奥村晃作 空と自動車

またbk1で奥村晃作(やはり敬称は略させていただきます)の歌集を買いました。
空と自動車」です。

第一歌集から第九歌集まで、500首を自選した歌集だそうです。
最近作にて現時点での最高傑作である(と私は思っている)第十歌集が入って
いないのは残念な気もしますが、まぁそれは言ってもせんないこと。

それにしても、空と自動車とは。
いいタイトルをつけたものだと思います。
どちらも私の大好きなものです(笑)・・・いや、それだけじゃなくて。
奥村晃作の短歌には自然と人為のコントラストを見事に描出したものが
いくつもあると私は思っているので、空(自然の代表)と自動車(人為、
人工物の代表)というタイトルは、実にしっくりきます。

・・・たとえば、こんな歌。

  ヤクルトのプラスチックの容器ゆえ水にまじらず海面(うなも)をゆくか

ヤクルトの容器、といえば誰でも独特のくびれを持ったあの形を思い浮かべられ
ますよね。ここ数十年の日本を代表する人工産物の一つでしょう(笑)
それが、海面という自然界にプカプカ浮かんでいる、という歌。
海に浮かんでるんですから、空の容器であることが伺われます。
また超乱暴に要約すると「海に浮かぶゴミを詠んだ歌」なんです。

でも私なぞは、ここで思いっきり深読みしてしまいます。
ヤクルトの空容器の形を借りて、人間という存在を歌っているんじゃないか、と。
もとは自然から生まれたものだったはずなのに、もはや自然界に溶け込むことが
できない、ヤクルトの空容器・・・すなわち人間。そう思いませんか?
(もちろん作者の意図は別として、こういう読み方ができる、ということです。)

大海原に抱かれても異物として排除され残ってしまうプラスチックの小さな容器。
これっぽっちの、ちっぽけな存在なのに、容易に自然に還ることができない。
なんだか孤独で、哀れで、だけどちょっとだけ笑える存在ですよね。

要所に配されたヤ行やマ行の音で、波間を漂う不安定さ、海の包容力が
表現されており、その中で「(ヤ)クルト」「プラスチック」のカタカナ文字と
硬質な音が、異物としてのコントラストを際立たせていると思います。

類歌というのでしょうか、同じ歌集内にちょっと似てるけど違う、こんな歌も
あります。

  ペットボトル春の潮(うしお)に漂うはペットボトルの科(とが)にはあらず

この歌では、浮かんでいるのはペットボトル。ヤクルトの容器より大きいですね。
でも、ヤクルトの容器はどう転んでもゴミにしかなりようがない物なのに対して、
ペットボトルといえば今の時代の華、リサイクル資源物の代表のような物です。
それがリサイクルされることなく、むなしく春の海に漂っている。

この歌は「ゴミになって海に浮いているのは、ペットボトルそのものせいじゃない
んだから、ペットボトルを責めるな」と言っているように読めます。
・・・そうなんだとしたら。
責められるべきは誰なんだろう?と思わずにいられないんですが。

普通に考えたら「捨てた人」ということになるんでしょうが、それだけじゃつまらない。
・・・ということで、考えてみました。

ここで科(とが)を負うべきなのは
1.便利な容器としてペットボトルを必要とする人
2.ペットボトルを作る人
3.ペットボトルによって商業的活動をする人
4.ペットボトルの中に容れられた水分で喉の渇きをいやす人
5.使用後のペットボトルをリサイクルせず無造作に捨ててしまう人、

この、みんなじゃないかと思うんですよね。
この歌を読むと、なんとなく、そんな風に思えてしまいます。
海のペットボトルという対象をただ描くことによって、かえってこちら側、つまり
現代人に従犯感覚のようなものが呼び起こされる・・・んじゃないかと。
(そんな風に思うのは私だけですかね?)
ほとんどの人は無関係じゃない、って。

ちょっと話がそれるかもしれませんが。
この歌には内田樹いうところの「とほほ主義」が表現されてるのかも、と思います。
内田樹「とほほ主義とは何か?」から引用します。

>(前略)そこには「身内の恥」を語ることへの「含羞」がある。
>そのような現状の出現を阻止しえなかったり、時にはそれと
>知らずに加担してきたおのれを責める気持ちがあり、その一方
>では「結局、これがおれたちには似合っているんだよ」という
>やけっぱちな居直りがある。
>この「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決ま
>らなさ」が私が「とほほ」感覚と呼ぶものなのである。

うーん。引用してみると、ちょっと違うような気もしないではないですが。
まぁとにかく、どこかで自分も無責任ではないと感じているような、でも基本的
には他人事としてそれを見ているような感じ、というのでしょうか。
ペットボトルと海のことしか書いていない歌なのに、そういう半端な感じ、曖昧な
感じというのがこの歌には表現されているように思ってしまうんです。

奥村晃作の歌は「認識の歌」ということですが、第三者的(客観的)な認識と
連帯責任を負う当事者意識、両方が、上のペットボトルの歌にはあると思うん
ですよね。
まぁ、この場合の当事者意識、というのは広い意味で、今の時代に生きる者と
しての時代認識、なのかもしれませんので、そうなると二重の意味で「認識」の
歌なんだと思います。

ヤクルトの容器もペットボトルも、通常の感覚では景観を損なうゴミとして、
無視されそうな物体です。
目に入らず(もし目に入ったとしても見なかったことにして)、海や潮だけを
歌に詠むのがいわゆる「普通の」作歌態度かもしれません。
それを、自然と人工物の対比として詠みこんだ「普通じゃない」短歌ですよね。

まぁ、ここでとりあげた二首は愛唱するような歌ではないのかもしれません。
でも一度読んだら、そのイメージが目前にあらわれて網膜に焼きつき、
天国と地獄を同時に目にした、というと大げさかもしれませんが、
一瞬、美醜入り混じったものに幻惑され魅了されてしまったような、
不思議な感覚が心にもやっと残る・・・残りませんか?
感じ方は人それぞれでしょうが、そんな歌だと私には思えます。
面白い、力のある、歌だと思うんです。

他にも面白いと思った歌がいくつもありまして、その面白さを自分の言葉で説明
できそうな気がしたら、またこちらで紹介してみたいです。

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コメント

二首を取り上げ、二首だけを取り上げ、対比させながら、文明批判の発想のもとに鋭く深く書き込まれ、納得しつつ、感心しつつ読ませて頂きました。
一首に向き合って、鋭く深く論を展開していくという形の文章は望まして物ですが、なかなか見かけなく、何時も貴重なご文章と思い、嬉しく読ませて頂いております。有難うございました。

投稿: 奥村晃作 | 2006年7月17日 (月) 10時33分

コメントありがとうございます。
こういう文章をいくらでも書きたくなるくらい、奥村さんの歌は面白いです。
なのに、ネットを検索しても、奥村さんの歌を面白い、と書いてあるサイトはあっても、どこがどう面白いのか、を書いてくれてるサイトがないんですよー。
(少なくとも私は見つけられませんでした・・・)

読み方も書き方も自己流で、普通じゃない短歌評論(のようなもの)なので、自分のブログ以外には恥ずかしくて出せないような文章ですが、これからも折をみて書き続けるつもりですので、どうぞよろしくお願いします。

投稿: slummy | 2006年7月18日 (火) 00時48分

お世辞抜きで、素晴らしい読み解きであり、論述と思います。
力量を備えた方と拝察いたします。

投稿: 奥村晃作 | 2006年7月18日 (火) 03時58分

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