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2006年7月26日 (水)

芭蕉布の帯(短歌)

  芭蕉布の帯を浴衣の上に締め窓からそよぐ風を味わう

  ヤンバルにふさわしい帯 芭蕉布は素朴な色と模様を見せる

  週末はこの帯しめて行きましょう 卒業以来の同窓会に

  飛行機に乗って電車を乗り継いで芭蕉布とゆく週末旅行

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芭蕉布縞柄半幅帯

Obi注文していた芭蕉布の半幅帯が完成した。
単(ひとえ)仕立てで、薄く軽いのに張りがあり、しっかりした感触である。
シンプルな夏帯として、普段着からよそゆきまで、活躍してくれそう。
画像では紺の浴衣(夏着物?)の上に置いてみた。

Kakudai 柄は縞。玉ねぎによる染色で、縞の柄に織ってもらっている。
縞の幅が途中で微妙に違っているのも嬉しい。

芭蕉布で、半幅帯というのはあまり織られていないらしい。
九寸、八寸帯が多いという。
半幅帯こそ、素朴で涼しげな芭蕉布の帯に合っていると個人的には思うのだが・・・。
半幅帯になりにくいというのは、芭蕉布が高価な希少品になってしまったからだろうか。

工房の主にたたみ方、しまい方を尋ねた。
芭蕉布はたたみ皺がしっかりついてしまう、という。
ついた皺は、アイロンをかけるなどしないととれない、とも。
だから、普通の帯のようにたたむのではなく、丸い芯を入れて巻くようにして片付けた方がいいそうだ。

汚れた場合の、洗い方なども訊いた。
昔はシークワーサー(沖縄の柑橘類)の汁で洗ったそうだが、
基本的に酸性の液で洗う、ということらしい。(クエン酸を洗剤代わりにできるかな?)
もちろん洗濯機ではなく、手洗い。
お茶碗で(お茶碗を伏せて?)平らな所の上で伸ばすようにして洗うらしい。
洗うと縮むので、完全に乾かないうちにアイロンで布目を伸ばした方がいい、とも。
うーん、結構手がかかるなぁ、私にできるかな、と思っていたら、それが顔に出ていたらしい(苦笑)。
「汚れて洗いたい時は、持ってくればいいですよ」と言ってくださった。
まぁ確かに、専門家におまかせできるなら、その方がいい。

週末に着てでかける予定ではあるが、待ちきれなくて、
家庭着にしている浴衣の上に締めてみた。

Yukata_1 軽く、涼しいのは期待通り。
折り目がつきやすそうな感じだが、私のように同じ帯結びばかり
する分には、その方が、かえって結びやすいかもしれない。

着物に凝って半年あまり、初めて入手したヤンバルの布、ヤンバルの帯。自分の所有物になって本当にうれしい。

これからも末永くよろしくお願いします、風苧(ふう)工房さま。

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2006年7月21日 (金)

芭蕉布の帯、あとちょっと

4月に注文した芭蕉布の半幅帯が、あと少しでできあがるという。
期待しているよりも軟らかいかもしれないから、一度、これでいいのか見て欲しい、
と芭蕉布工房の主が持参してきてくれた。
(あらためて、芭蕉布の里から車で30分の距離に住んでて良かったと思った。)

芭蕉布は、芭蕉の茎のどの部分の繊維を使うかで布に差がある。
茎の中心に近い、細い繊維が最も高級な糸(ナハグーと呼ばれている)。
琉球王朝の王族や貴族が着用していたのはこのナハグーで織り上げた布だったそうで
ナハグーで織った着尺は今もすごい値段がつく。
・・・しかし、そういう高級品は庶民には必要ない。
私はテーブルセンターとして織り上げられた布をみて「こんな感じの硬さで、この縞で」
と注文したのだ。
テーブルセンター用の糸は、茎の最も外側の太い繊維。
普通の帯にはもう少し内側の、細めの繊維を使うそうだが、
丈夫そうで、長く使える帯にするためには太めの繊維が良いとも思ったのだ。
単(ひとえ)でも十分な硬さがあったので、単の半幅帯を注文した。

工房の主は、単の帯を織るのは初めてなのだそうだ。
織り上げてから、このままでは軟らかすぎるのではないか、と心配になって
確認のために持ってきてくれたという。
出して見せてくれた帯は、期待通りの色、模様、質感である。
硬さも十分だと思ったが念のため、私の持っている夏帯と硬さを比較することにした。

単の夏物名古屋帯(化繊)と比べると、持参してもらった芭蕉布の方が少し軟らかい。
しかし芯なし袷仕立ての博多夏帯(化繊)は、ほとんど同じ程度の硬さ。
半幅帯だからこの硬さでいいんだろう、ということになった。
後は端をかがって終わり。来週には完成だ。

今回、ずっと気になっていたウーウミ(苧績み)を、少しずつでもやらせてもらえないか、
と頼んでみた。
忙しいんじゃないの?と言われたが・・・まぁ、ハイ、確かに忙しいです。
でも、時間は作り出すもの。
「時間をみつけて、合間の時間に少しずつということになるので、たくさんはできないと
思うけど、とにかく始めたい」と意志を伝えた。
次回、完成した帯を持ってきてもらう時にまたこの話をすることになるだろう。

どの家庭でも女の仕事として織られていたという芭蕉布。
昔の沖縄の女たちに時間がいっぱいあったのか、というと、そうじゃないと思う。
何段階もある工程を、家事や農作業や育児の合間を縫うようにしてやっていたはずだ。
そう思うと、私にもできるような、やらなくてはいけないような気がする。
沖縄伝統文化の継承、というと大げさなことになるが、趣味を兼ねたボランティアだ。
子供たちが寝る前、テレビを見る間にでも、できるかなぁ、と思っている。

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2006年7月13日 (木)

イルカ柄綿麻半幅帯

Iruka半襟を作った布(綿麻半襟水玉にイルカ)が残っていたので、
夏用の半幅帯を作った。
洋服用の接着芯(薄手)を裏に貼り、18cm幅の3m分つないで
ミシンでダーーーッと縫って、アイロンをかけて出来上がり。

綿麻の帯は、普通の木綿の帯よりも涼しいような気がする。
体感だけではなく、見た目も少しは涼しそうに見える・・・と思う。

しじら織のシンプルな木綿着物(浴衣として売っていたが私は
夏着物として着用している)にあわせてみた。
今日は休日。この格好で美容院に行ってきた。

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2006年7月11日 (火)

奥村晃作 空と自動車

またbk1で奥村晃作(やはり敬称は略させていただきます)の歌集を買いました。
空と自動車」です。

第一歌集から第九歌集まで、500首を自選した歌集だそうです。
最近作にて現時点での最高傑作である(と私は思っている)第十歌集が入って
いないのは残念な気もしますが、まぁそれは言ってもせんないこと。

それにしても、空と自動車とは。
いいタイトルをつけたものだと思います。
どちらも私の大好きなものです(笑)・・・いや、それだけじゃなくて。
奥村晃作の短歌には自然と人為のコントラストを見事に描出したものが
いくつもあると私は思っているので、空(自然の代表)と自動車(人為、
人工物の代表)というタイトルは、実にしっくりきます。

・・・たとえば、こんな歌。

  ヤクルトのプラスチックの容器ゆえ水にまじらず海面(うなも)をゆくか

ヤクルトの容器、といえば誰でも独特のくびれを持ったあの形を思い浮かべられ
ますよね。ここ数十年の日本を代表する人工産物の一つでしょう(笑)
それが、海面という自然界にプカプカ浮かんでいる、という歌。
海に浮かんでるんですから、空の容器であることが伺われます。
また超乱暴に要約すると「海に浮かぶゴミを詠んだ歌」なんです。

でも私なぞは、ここで思いっきり深読みしてしまいます。
ヤクルトの空容器の形を借りて、人間という存在を歌っているんじゃないか、と。
もとは自然から生まれたものだったはずなのに、もはや自然界に溶け込むことが
できない、ヤクルトの空容器・・・すなわち人間。そう思いませんか?
(もちろん作者の意図は別として、こういう読み方ができる、ということです。)

大海原に抱かれても異物として排除され残ってしまうプラスチックの小さな容器。
これっぽっちの、ちっぽけな存在なのに、容易に自然に還ることができない。
なんだか孤独で、哀れで、だけどちょっとだけ笑える存在ですよね。

要所に配されたヤ行やマ行の音で、波間を漂う不安定さ、海の包容力が
表現されており、その中で「(ヤ)クルト」「プラスチック」のカタカナ文字と
硬質な音が、異物としてのコントラストを際立たせていると思います。

類歌というのでしょうか、同じ歌集内にちょっと似てるけど違う、こんな歌も
あります。

  ペットボトル春の潮(うしお)に漂うはペットボトルの科(とが)にはあらず

この歌では、浮かんでいるのはペットボトル。ヤクルトの容器より大きいですね。
でも、ヤクルトの容器はどう転んでもゴミにしかなりようがない物なのに対して、
ペットボトルといえば今の時代の華、リサイクル資源物の代表のような物です。
それがリサイクルされることなく、むなしく春の海に漂っている。

この歌は「ゴミになって海に浮いているのは、ペットボトルそのものせいじゃない
んだから、ペットボトルを責めるな」と言っているように読めます。
・・・そうなんだとしたら。
責められるべきは誰なんだろう?と思わずにいられないんですが。

普通に考えたら「捨てた人」ということになるんでしょうが、それだけじゃつまらない。
・・・ということで、考えてみました。

ここで科(とが)を負うべきなのは
1.便利な容器としてペットボトルを必要とする人
2.ペットボトルを作る人
3.ペットボトルによって商業的活動をする人
4.ペットボトルの中に容れられた水分で喉の渇きをいやす人
5.使用後のペットボトルをリサイクルせず無造作に捨ててしまう人、

この、みんなじゃないかと思うんですよね。
この歌を読むと、なんとなく、そんな風に思えてしまいます。
海のペットボトルという対象をただ描くことによって、かえってこちら側、つまり
現代人に従犯感覚のようなものが呼び起こされる・・・んじゃないかと。
(そんな風に思うのは私だけですかね?)
ほとんどの人は無関係じゃない、って。

ちょっと話がそれるかもしれませんが。
この歌には内田樹いうところの「とほほ主義」が表現されてるのかも、と思います。
内田樹「とほほ主義とは何か?」から引用します。

>(前略)そこには「身内の恥」を語ることへの「含羞」がある。
>そのような現状の出現を阻止しえなかったり、時にはそれと
>知らずに加担してきたおのれを責める気持ちがあり、その一方
>では「結局、これがおれたちには似合っているんだよ」という
>やけっぱちな居直りがある。
>この「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決ま
>らなさ」が私が「とほほ」感覚と呼ぶものなのである。

うーん。引用してみると、ちょっと違うような気もしないではないですが。
まぁとにかく、どこかで自分も無責任ではないと感じているような、でも基本的
には他人事としてそれを見ているような感じ、というのでしょうか。
ペットボトルと海のことしか書いていない歌なのに、そういう半端な感じ、曖昧な
感じというのがこの歌には表現されているように思ってしまうんです。

奥村晃作の歌は「認識の歌」ということですが、第三者的(客観的)な認識と
連帯責任を負う当事者意識、両方が、上のペットボトルの歌にはあると思うん
ですよね。
まぁ、この場合の当事者意識、というのは広い意味で、今の時代に生きる者と
しての時代認識、なのかもしれませんので、そうなると二重の意味で「認識」の
歌なんだと思います。

ヤクルトの容器もペットボトルも、通常の感覚では景観を損なうゴミとして、
無視されそうな物体です。
目に入らず(もし目に入ったとしても見なかったことにして)、海や潮だけを
歌に詠むのがいわゆる「普通の」作歌態度かもしれません。
それを、自然と人工物の対比として詠みこんだ「普通じゃない」短歌ですよね。

まぁ、ここでとりあげた二首は愛唱するような歌ではないのかもしれません。
でも一度読んだら、そのイメージが目前にあらわれて網膜に焼きつき、
天国と地獄を同時に目にした、というと大げさかもしれませんが、
一瞬、美醜入り混じったものに幻惑され魅了されてしまったような、
不思議な感覚が心にもやっと残る・・・残りませんか?
感じ方は人それぞれでしょうが、そんな歌だと私には思えます。
面白い、力のある、歌だと思うんです。

他にも面白いと思った歌がいくつもありまして、その面白さを自分の言葉で説明
できそうな気がしたら、またこちらで紹介してみたいです。

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