2016年4月12日 (火)

「健常死」という概念

生きる、死ぬ、わからないことがある、というのが人間の真実だ、とある先生に教えられて。

年をとって自然に(?)死ぬ、というのは医学的には「老衰」と捉え、積極的な意味では用いられて来なかった。
しかし、「健康な人間の常態、人生の終末期としての自然死」、というものは稀な現象なのだろうか。
全部分類してしまい、ほとんどすべての死は病死、そうでなければ事故死、というのが今の捉え方である。
歴史的には「老衰死」≒「死因不詳」と捉えられてきたのでそのニュアンスは残る。

新しい用語が必要なのかもしれない。
ということで、病理学者コミュニティの端っこにいる人間の一人として。

「健常死」という死に方、概念を提唱してみたい。

プログラムされた細胞死とされているapoptosisに相当する、ヒト個体の死。
Accidentalではない、internalな、人体固有の生物学的内因死であること。

その個体なりの、健康な常態の終末期を経て、その結果として亡くなった、人の死。
その定義、というのがあり得るかな?というのを考えている。

まずは概念として、ここに出しておくだけ、ね。
このネーミングが適切かどうかもよくわからないし。
他にもこういう考え方に結び付いている人はいっぱいいそうな気がするし。


たとえば100歳で昨日まで家で元気で食事もして話をしてらした方が、
眠るように、亡くなった場合。
その方の身体には、某臓器癌細胞の全身播種があった場合。

もちろん?「悪性腫瘍(悪性新生物)による死」ということになるんだけど。

現行の死因統計、原死因分類は、
ある臓器の悪性腫瘍の全身播種の結果として死んだ人は、
もう「自然死」ではない、「病死」である、
という社会的メッセージを送り過ぎてしまっている、と私は考えているので。

まだ自分でもちょっと考えてわかる限りでも、突っ込みどころ満載。

・英語ではどう表記するの(未定)
・嘘やごまかしが入りにくい死因の概念として、社会的な合意形成があり得るの
(これは超難関。はっきり言って、まだまだわかんない。
 SIDSのように病理解剖で確認されていること、としてみるかな…。)
・障がい者は健常死しないの
(これは絶対、否定したい。すべての人が健常死できるもの、として定義したい。)
・他の死因とのすみ分け。
(これが一番厄介なところだろーなー。)
・病理診断としてあり得るの。
(SIDSだって病理診断される時代なんだから、できない訳はない、と私は思っちゃうけど。)

・・・などなど。
他者からフルボッコにされるのは精神的にキツイので、
今は自分で考えて、自己批判もしながら、ネット上で公表してるだけ。

死について語ることが社会的タブーと今もされているのかどうかは私にはよくわからない。
とりあえず、ゆっくり考えて行こうっと。

私がやらなくても、誰かがやってくれるなら、それでいいと思うし。

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2015年6月 8日 (月)

飛行機の中で呼び出された経験談

飛行機の中で「お医者様はいらっしゃいませんか」という場面に立ち会ってしまった経験談を書いておきます。

注)ただの前世紀の経験談です。
 古すぎる話で記憶が確実でない部分もあります、ご容赦ください。
 医師の応召義務の話題ではありません。
 議論の材料にはしないでいただきたいです。

当時わたしは医学生、高学年でした。
アメリカ東海岸から日本へと飛ぶ、国際線(日本の航空会社)に乗っていました。
フライトの時間は、10時間程度だったと思います。

事情により一人旅だったのですが、たまたまお隣に話好きの方が乗っていて
旅は道連れ、とばかりに、わたしはお隣の女性といろいろと話していました。
その中で「医学生である」という話もしていました。

離陸して数時間後。
それまでわたしたちにサービスをしてくれていたキャビンアテンダントさんが、
わたしのところにやってきて、膝をかがめて、こんな風に話しかけてきたのです。

「すみません、お話を聞いてしまったのですが、医学部の学生さんなのですか。
実は機内で気分が悪いとおっしゃるお客様がいらっしゃるのです。
心配なので…少しだけでも、様子を見にきていただけないでしょうか。」

驚きました。そしてものすごく怖くなりました。
軽率に自分の情報を知らない人に明かしていたことを後悔しました。

医学生で医療行為はできないこと、そもそも全然自信がない!ということを必死で訴えました。
ですけれど、結局わたしは「気分が悪いお客様」のところに行きました。
そのキャビンアテンダントさんが気の毒で、彼女の頼みを断り切れなかったのです。

機内の医療品として、酸素と血圧計などを見せられたような記憶があります。
「気分が悪い」方は意識はあり話もできました。
本気で気分が悪そうでした。
が、わたしでは何もできないことは明らかでした。

チーフと思われるキャビンアテンダントは私に対して不審感をあらわにしてきました。
そう。
「何もできない」と言っている場合ではないのです。
できることはすべてするしかない。
この場合にわたしにできることが一つありました。

「お医者様を呼んでください」

と、わたしは言いました。
それが最善の手段だと思いました。
わたしは医学生にすぎないのですから。
日本語と英語でドクターコールがなされました。
「お医者様はいらっしゃいませんか」という、放送です。

アメリカ人らしき壮年男性の医師が名乗り出ました。
「酸素吸入、到着したら救急車。それ以外にすることはない」と英語で結論し、彼は自席に戻りました。

わたしも戻ろうとしました…が引きとめられました。
最初にわたしに声をかけてきたキャビンアテンダントさんです。
できれば近くの席にいて欲しい、と、とても心配そうな様子でわたしを返してくれませんでした。

元の席に一時的に戻り、お隣の席の女性に事情を説明して、わたしは席を変えました。
何もできないのに近くにいるのも変だと思い、「気分が悪い方」の血圧を測ることにしました。
聴診器で脈拍を聴きとるタイプの血圧計でした。
ですが、機内はうるさくて、脈がほとんど聞き取れませんでした。
成田空港まで、触診法で収縮期血圧だけを定期的に測定し、記録しました。
長い長い、オソロシイ旅になってしまいました。

成田に到着して、待っていた救急車が患者さんを乗せて出発し、
ようやく解放されたと思ったのですが、それで終わりではありませんでした。

最初に声をかけてきたキャビンアテンダントさんが、今度は、ペンと用紙を持ってきたのです。
そして、ここに住所と氏名、連絡先を書いて欲しい、と言われました。

この患者さんに何かあったら責任を問われるのだろうか、とわたしは恐ろしくなりました。

でも予約時点で氏名は既にバレています。
もう今さら逃げも隠れもできないだろう、と観念して、わたしは用紙に記入しました。
家に戻ってからも、いつ恐怖の連絡が届くだろうか、と内心では心配していました。

そうしたら、ある日、航空会社から定型外郵便物が届きました。
中には礼状とトラベルウォッチが入っていました。
そのための住所氏名だったんだな、とようやく納得しました。

これで、わたしの経験談はおしまいです。

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2012年6月 2日 (土)

宮石理先生を偲ぶ

千葉、幕張での臨床細胞学会春期大会に参加します。

幕張メッセで臨床細胞学会春期大会が開催されるのは2007年以来で、私が幕張に行くのもそのとき以来のことです。

亡くなられた宮石理(みやいし おさむ)先生に最後に会ったのが、この2007年の臨床細胞学会だったので、再び幕張メッセに行くにあたって、私なりの追悼文を書いてこちらに掲載しておきます。

+ + + + + + +

宮石先生は、私の駆け出しの頃の病理診断学の師の一人です。
非常勤病理医として週1回病院にいらしてた、個性の強い先生でした。

病理医としてのトレーニングを始めたばかりの私にとって、最初、宮石先生は他の先生方とは違って、ちょっと敷居が高いというか、とっつきにくい、近寄り難い先生でした。
ぶっきらぼうな言葉で話されましたし、それも、ゴチャゴチャ何を言ってるのか判りにくく、厳しい言葉も多く。
「まだこんなこともできないのか」というようなこととか、何度言われたかわかりません。
先生のお名前の「理」という字も、何て読むのですかと本人に尋ねた時には教えてもらえず、後で他の人から教えてもらいました。
直球ストレートではなく、変化球ばかり投げてくる人、というのが当時の私の印象です。

でも、そういう言葉や態度とは裏腹に、宮石先生はとても面倒見が良い人だ、ということはじきにわかりました。
ある若手の一群(釣り仲間たち)には「隊長」と呼ばれ慕われていました。
私自身はそんな呼び方をしたことはありませんけれど、確かに、先生というよりは「隊長」っていう呼称の方が似合う人だったように思います。

私が病理医になって数年目、初めて術中迅速病理診断を一人でする機会が訪れました。
上司の出張予定の期間中、私が一人の時に術中迅速診断の予約が入ったのです。
術中迅速診断は重い責任を伴う、病理医の業務の中で最も難しいともいえる業務です。
それまで何度も上司と一緒に診断してはきたものの、一人で、というのは初めてで、不安でたまりませんでした。
予定された日、非常勤の先生方の中で一番、近くの施設にいるのが宮石先生でした。
前の週に来られた際に事情をお話したら「どうしても困ったらオレを呼べ」と言ってくださいました。

そして迎えた術中迅速の当日。
案の定、診断に困りました。

肺腫瘤。
negativeだろうと思いました。
Tuberculosisだろう、と。
思ったけれど、確定できるほどの自信が、私にはなかったのです。
(注:Tuberculosisの結節は肉眼診断できるのならばfrozen sectionを作製しない方が良いとされています、飛沫感染源となるため。しかし、当時の私には肉眼診断だけ、という選択肢はありませんでした。)
迷った末、宮石先生に電話しました。

「待ってろ、30分で行くからな」と言って、宮石先生は病院に駆けつけてくれました。
顕微鏡を覗いてすぐ診断を確定し「(臨床医に連絡する)電話はまかせた」と言ってサッと帰って行かれました。

病院内の滞在時間は3分、いや、1分だったかもしれません。
ものすごくお忙しい中を無理して来て下さった、というのは私にもわかりました。
何か嫌味でも言われるだろうか、とビクビクしていたのですが、余計なことは一言もおっしゃいませんでした。
短時間で診断して帰って行かれた宮石先生の後ろ姿、忘れません。

私が病理専門医になり、沖縄の病院で働いてからも、何度もメールや電話で助けていただきました。
たとえば患者情報が直に記載されたスライドグラスの処分方法を尋ねた時の解説も、実にユニークでした。
 「んなもんはな、金属のバケツに入れて、金属バットでゴリゴリ割る。
 ゴリゴリ、ゴリゴリだ。
 最初はなんでこんなバカバカしいことをやってるんだ、としか思えない。
 でもやってるうちに、だんだんそのゴリゴリという感覚が快感になってくる。」
電話口で大笑いしてしまったのも、懐かしい思い出です。

2007年春、先生のご病気について知りました。
だから、その年の6月、幕張メッセでお変わりない姿を見かけた時には驚き、とても嬉しかったです。
宮石先生とN先生(先輩女性病理医、私にとっては憧れの素敵な方です)と私の3人で近くのお蕎麦屋さんにお昼に入りました。
ざるそばを食べながら、家族のことや、仕事のこと、いろんな話をしました。
上に書いた、術中迅速の話を私がしたら「そんなこともあったかな、忘れた」と言われました。
本当に忘れたのか、それともただの照れ隠しなのか、宮石先生だったらどっちでもアリです。
先生のご病気のことは話しませんでしたが、私たち全員、この時間がいかに貴重なものであるか、知っていました。

昼食後、学会会場に戻って、ちょっと目を離したすきに、宮石先生はいなくなってしまいました。
お別れの挨拶もせず、そんな風にいなくなるのも宮石先生らしいといえば本当にそうです。
それが、私が宮石先生にお会いした最後となりました。

あれから、5年経ちました。
もう幕張メッセに行っても、学会会場で宮石先生をお見かけすることは、ありません。
ですけれど、今も、そしてこれからも、宮石先生は私の師匠の一人です。
折に触れるごとに私は宮石先生の言葉を、口調を、教えていただいた数々のことを思い出します。
こんな時、宮石先生だったらどうするだろう、と考えたりします。
もっとたくさんのことを教えてもらいたかったです。


宮石理先生のご冥福を、心から、お祈り申し上げます。

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2012年3月31日 (土)

転職します

本日付で、現在の勤務先を退職します。
病院病理医から、大学教員、それも公立大学文系学部の教員への転身となります。
職務は、診療情報管理士の教育、です。

既に昨年、非常勤講師として教えた大学でもありますし、4月以降も現在の勤務先にて非常勤病理医として病理診断業務を継続しますので(病理専門医、細胞診専門医を辞めるつもりはありません)常勤と非常勤として働く場を交換した、みたいに考えていただけると理解しやすいかとも思います。

転職の理由はたくさんあります。長文ですよ~。

1.ワークライフバランス

子供たちが小学生、中学生として家にいる今のうちに、もう少し家庭に時間を割きたいと思いました。
大学教員の方が現在の公立病院常勤勤務医という職務よりも、時間が自由になり子供と過ごす時間を保てる、という判断です。

2.当院における病理検体の減少と院内での役割の変化

病理検体数が年々減少している病院で、病院の中で病理診断医としてのみ働き続けることに疑問を感じていました。各種委員会の委員、病院機能評価受審準備や医療安全管理の仕事も引き受けたりしていたのですが、このままずっと院内に留まり続けることに疑問を持ち、魅力的な転職先を探していました。

3.教鞭をとることが楽しくなった

診療情報管理士の資格取得のための教育課程の中で、医師が教えなければならない教科、というのが決められており、私はそれらの科目を教える教員となります。

当初、非常勤講師として教科の一部を教えるよう声がかかった時、なんかものすごく広範囲だし、教え始めるまでは苦痛だったのですが、いざ、やってみたら講義することが実に楽しかったんです。(準備は大変でしたけど!)学生たちの反応も良く、また教える内容も、私に合っている、と感じました。

4.リベラルアーツの魅力

母校で後輩に教えたり、看護学校で病理を教えたりするのも結構、楽しんでいるのですが、リベラルアーツを掲げる大学の文系の学部だけあって雰囲気が随分、違いました。
医学系、看護系の学校って、どうしても職業訓練学校的な面がありますし、私も職業に直結する、就職した際に役に立つ講義をするよう努力してきたつもりです。

でも、「役に立たない無駄なこと」を切り詰め、切り捨てて要点だけにしぼりこんだ教育って、つまんないんですよ。どうしても。
余計なこと、一見したら関係ないように思えること、遠回りのように見えること、の方がぜったい面白いし、それが本筋とつながって活かすことができるようになると、格段に幅も奥行きも変わってくる。
そういうのって、教養、とも言い換えられると思うんです。

高校3年生だった頃、琉球大学医学部医学科を受験したのは、総合大学の中にある(教養課程などは他の学部と共通の)医学部だったから、というのが大きな理由でした。
専門課程は国公立ならどこも大差ないだろうけど、医科単科大学ではきっと教養課程がつまらない、と思ったのです。説明すると長くなりますが、もともと私は医者になるために医学部を志したのではなく、食いっぱぐれのない研究者/学者になるには医学部に行って医者の資格もとっておくのが一番だろうというのが受験理由でした。
このブログでも古代ギリシャの話とか書いてますけど(笑)個人的な興味と関心は医学という専門分野の枝葉の先よりは、もっと広い所にあるんです。非常勤講師として文系の学部で教えてみて、既に教えてらっしゃる先生方と話して、ここにはリベラルアーツと呼ばれる教育が理想として掲げられていることを実感しました。

ずっと憧れていた、リベラルアーツです。
そういう環境の中に、身を置かせてもらえるなんて、考えただけでワクワクします。

5.診療情報管理士という職種の将来性

まだ資格としての認知度も低く、残念ながら待遇も決して良いとはいえない身分・資格ですけれど、その意義を理解し、大きな将来性、可能性を見出した、というのもあります。
診療情報管理士は、病院事務職員のエリート(良い意味で)となり得る資格、職種です。

市中病院に20年勤務してきて、病院の事務職が専門的に養成されておらず、誰にでも可能な一般職と考えられてon the job trainingのみであることの問題点を痛感してきました。
「医療事務」のbaseがあまりに弱すぎるのです。

これから私は、病院の事務長候補者、病院法人の理事長候補者、を教育するのだと思っています。病院に就職した時点で、広い教養を基礎としつつ、医療についての基本的な知識があれば、病院職員としてのアドバンテージは大きいはずです。将来的に病院にとって役に立つ人材となっていける、優秀な事務職員を輩出するコースにしていきたいです。

6.地域住民としての立ち位置

今いる地域、この地域における医療にこだわってきた人間の一人として、この地域を出て引っ越してまで、病理専門医として働く道を選ぶよりも、この地域内で自分にできることを続ける、という道を私は現時点では、選択しました。
医師として、また、病理専門医資格を活かして転職する、というのであれば遠くに転身する方が容易かもしれません。ですが、今は、引っ越さない、ということで。

7.「公立」という看板へのこだわり

これから働く大学が、「公立大学法人」でなければ、私はもっともっと就職をためらったと思っています。

税金をつぎ込むからにはシャキッとしろよ、というような言い方をするのは容易ですし、私自身そういう言い方をすることもあるのですが…できれば、そういう他人事な上から目線ではなく。
名前に「公」を冠した組織ってのは何のためにあるのか、どこを目指すものなのか、現実的に何ができるのか、というのを中に身を置きながら、考えていたいです。

「公立」の組織に、私は人一倍、関心があるのかもしれません。個人としても、これまで卒業した学校はすべて「(国・県・市を含む)公立」でしたし、職場も公立病院、県立病院でした。「公立」の可能性を、大学に行っても追求できればなぁ、と思っています。


ということで、本日が、足かけ14年勤務した、現在の病院における常勤病理医としての最後の日、ということになります。
別に病理医を辞めるつもりはありませんので(軸足の置き場が変わる、というような認識です)、このブログのタイトルも当面、そのままにしておくつもりですし、病理関連の話題も続けます。

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2011年7月29日 (金)

追悼・辻本好子さん

COMLの理事長、辻本好子さんが亡くなられました。
「お別れ会」も開催されるようですが、私は行くことができないので・・・。
あるSNSで書いた追悼文に、加筆修正したものをこちらに公開しておきます。

「ささえあい医療人権センターCOML」の活動は、患者の主体的な医療への参加を求めつつ、患者と医療者が対立するのではなく、対話を重ね相互理解をうながす架け橋を作るようなものだと思っています。辻本さんはそのCOMLの中心人物でした。

個人的に親しかったという訳では決して、ありませんが、辻本さんにはかなり影響を受けた病理医(の一人?)です。
1997年の病理学会の、市民公開シンポジウムで辻本さんがいらして発言されたのが、私にとっての辻本さんとの出会いでした。

臨床医は医療を行ったら患者さんに「ありがとう」と言ってもらえますが、直接患者さんに接しない病理医は、そういう機会がありません。
病理標本だけをみて、そのむこうの患者の存在を忘れていることさえあったり。
標本の所見を読んで診断をするだけ、臨床的意義は二の次となりかねないのです。
そんな病理医集団である病理学会に辻本さんはやってきて「精確な診断をありがとうございます」「みなさんが大事な診断をしてくれるから治療ができるのです」と患者代表として発表されました。
辻本さんは、確かに病理医と患者をつなぐ役割をしてらした、と思います。

シンポジウムが終わった後の、小規模な懇親会に誘われてご一緒させていただきました。
辻本さんと直接、何かをお話した記憶は残念ながらありません。
ですけれど、酔っ払った病理医たち(苦笑)にさまざまなことを言われても、微笑みながら受け流し、凛としてらした辻本さんの姿勢は、その前のシンポジウムでの姿以上に私の記憶に残っています。芯のしっかりした大人の女性という感じがして、憧れました。ものすごく強いようでいて、なんて柔らかで温かいんだろう、誰も来たことがない所に飛び込んで誰もしたことがないことを貫き続けていく女性というのはこんな風なんだ、素敵だなぁ、と。
男性ばかりの場の中で女性が辻本さんと私だけだった、ということもあるかもしれませんが、辻本さんの私への優しい眼差し、若輩の私に視線を送り、その瞳で示してくださった配慮と共感は、言葉を越えた心の糧として今も私の中に残り、私を支え続けてくれています。

その後も辻本さんは病理学会にいらしては「患者サイドが病理医に求めること」をくり返し発言され、「医療の中の病理診断」が実際には「患者のための病理診断」である、というのを多くの病理医の頭に刷り込んでくださった、と私は評価しています。
病理「学者」であることが何よりも重要、医学という象牙の塔に閉じこもってればいいという考えが主流を占めていた病理学会に、外からやってきて病理「医」集団なのだという自覚を促し、日本の病理学会とその構成員である病理医の意識を大きく変えた、功労者のお一人だと私は思っています。

辻本さんと出会ったおかげで私は、COMLの活動に注目するようになりました。
「新・医者にかかる10箇条」
など、病院でも活用させていただきましたし。
患者自らの自己決定を尊重する、そのために患者も学ぶ、という姿勢を明瞭にしたCOMLは、時代を先取りしていたと思いますし、時代の求めにも合っていると私は思います。

闘病のことを知り、そう遠くない日に、こういう時が来るのだと思っていました。
もっともっと長生きしてあちこちで活動して欲しかったけれど。
ブログを読むと、最後まで辻本さんは辻本さんだったのだなぁ、と思わされます。

辻本さんが亡くなられても、彼女の精神は多くの人の中に残されています。彼女が尽力してきたことを、私たちがもっと裾野を広げつつ、幾分かでも受け継いでいきたいです。

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2010年4月 3日 (土)

誤診はゼロにできない

リンク: 救急搬送の女性死亡で医師送検 警視庁、業過致死容疑で - 47NEWS(よんななニュース).

今回報道された事件について、亡くなられた患者さん、残されたご遺族に哀悼の意を表明させていただきます。

「適正に検査、処置をしていれば、救命できた可能性があった」というのは事実だと思います。
子宮外妊娠を念頭に置いて検査、処置をしていれば救命できた、ということでしょう。

一方、診療した時点で現在の医療水準に照らして(ちゃんと最新の知識を得て、間違いなく検査し診断も間違えずに適切なタイミングで治療を行い)救命可能なものはすべて救命すべき、1000人の患者が生還していても一人の患者の救命ができなかったら警察の出番、というのが今の時代の社会正義なのでしょうか。
いろいろ難しい問題を含んでおり、私にはわかりません。

わかることだけを二つ、書いてみます。

一つは救急医療の問題。
大まかに言って、「救急患者」の100人のうち95人くらいは医者が何をしても(何もしなくても)死なない、のだと思っています。(私がそう思っているからといって事実かどうかは別ですよー、私は救急患者を診ない病理医ですからー。)
でも、100人のうち5人くらいは放っておくと「危ない」。すぐ治療したり入院させたりする必要がある。

その、100人の5人を見分けるのが、実に容易ではありません。
目の前にいるこの一人の患者は95%の「死なない」患者なのか、5%の「危ない」患者なのかを、見分けられるようになりなさいね、と研修医には言います。
ベテラン救急医は「だいたい、わかる」と言います。
経験と知識と道具(検査)と勘を総動員すれば、わかるんだそうです。

でも、どんなべテラン医師でも誤診をゼロにはできません。
この事実を、日本の医療界はずっと黙ってきました。
私はこれも「偽装」の一種だと思っています。

もう一つ、私がわかるのは「誤診」の問題です。

以前に参加したアメリカ・カナダ病理学会ではMy worst diagnosis of the lifeというセッションがありました。高名な医師が次々と壇上にあがり、「生涯最悪の誤診」について詳細に語るという発表会です。
訴訟社会のアメリカでこんな発表して、訴訟を起こされるのが怖くないんだろうか、とも思いましたが、「失敗から学ぶ」という姿勢は明瞭でした。日本でも、そういう動きはありますが、まだまだ足りません。

病理医の立場で、臨床医の誤診に遭遇することは決して珍しくありません。まぁ私は病院勤務の病理医ですので、それが仕事でもあるというか、臨床医が見落としても私が見つければ患者さんには迷惑がかかりませんので、臨床の先生方には「ちゃんと検体出してくださればいいんです、安心して誤診してください(笑)」なんて冗談を言うことさえあります。

あくまでも冗談です。正しい臨床診断がなされていた方が病理診断もより正確になり、病理医の誤診も予防されます。
そう。病理医も誤診しますから。

一生忘れない「見落とし」=誤診、が私にもあります。標本をもう一度、見直しても、どうしてコレを誤診してしまったのか・・・と暗澹たる気持ちになってしまい、冷静になりきれないような痛恨の誤診です。
一度きりではありません。過去の誤診を思い出すと、なんであんなヒドイ間違いをしたのに私はエラそーに病理医続けてるんだろう、と思ったり。でもここで私が病理医を辞めたら、ウチの病院には病理医がいなくなるし・・・辛いところです。
誤診直後の患者死亡は幸い、現在に至るまで経験していないのですが、それは患者死亡と私の誤診との因果関係を私が認識していない(明らかになっていない)だけか、私自身の経験数がまだまだ少ないためか、それともただの偶然か、 としか思ってません。

見落としを減らすべく努力する、誤診をゼロにすべく努力するのが医師としての本分であるのは間違いないです。
が、どんなに努力しても誤診をゼロにはできない、と認められないのはただの認識不足、もっと言えば傲慢だと私は思っています。
「誤診はゼロにできる」と医師自身が言っているとしたら、なんて愚かな医師なんだろう、と。

100%正しい診断なんてない、のだと思います。
でも100%を目指して努力する、追及する、のが「100%の病理診断」だと元京大のM先生が言っておられました。
その通りだと思いますし、私も100%を目指す努力を続けたいです。

努力目標と、義務とは異なります。
「誤診をしないよう、最大限、努力すべき」というのは認めますが「誤診をしてはならない」というのは無理です。
私のようなそそっかしく欠けも多く間違えてだらけの人間が、今後一生、誤診をしないなんて、どうひっくり返っても誓えません。
自然にまかせると私は間違える、だから間違いを減らすような工夫を重ね、必死で誤診を予防している、とも言えます。自分の間違いを発見したらできるだけ患者さんの迷惑にならないように対処する、ということも心がけていますが、それも「私は間違える」ということが前提だからです。

うまくまとまりませんが、医師が業務上過失致死罪の容疑者として・・・という報道に接するたびに、過失だらけの私はどうやって医師を続けていけばいいのだろう、と思います。
法律用語の「業務上過失」が、必ずしも私の日常にありふれている「間違い」と同一ではない、と頭ではわかっているのですが、根が小心者なので、怖いです。

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2010年3月30日 (火)

Twitterはじめてみました

Twitterなるものを始めてみました。
あまりにもブログを更新できてないのと、近況報告だけならTwitterの方がいいのかも、という考えからです。

日常がダダもれになりそうで怖い、という気もしますが…。
まぁ、やりながら考えます。

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2009年5月27日 (水)

新型インフル対策

基本的には浮世離れしてるこのブログですが、時には時事ネタも、ということで新型インフル関連のサイトを紹介させてください。

良くできてるなーと感心した、イギリスの国民医療保健サービス(NHS)のビデオです。
ooyakeで知りました。

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2007年11月 1日 (木)

進路に迷っている人へ

敷かれたレールの上を走るだけの人生なんて、と思っていた
自分でレールを敷き、自由に思うがまま、自分の走りたい方向に走りたいものだ、と
それとも、いっそレールを敷かずに走った方がより自由なのではないか?とも

けれど、いざ
敷かれたレールが終わりそうになった時
未来に続くレールがないことが不安になった
自分にレールを敷くことができるのだろうか?
敷いたとしても、方向が間違っていないのだろうか?

不安に耐え切れず、周囲の人の助けを求め、助力を得て、レールを敷いた
もうそれは、私が敷いたというよりは
周囲の人に敷いてもらった、という方が正確かもしれない
自分でレールを敷いたというよりは、他人に用意してもらったレールに乗った
そして私はその上を走り出した

一本に見えていたレールは、しばらく走るといくつも分岐していた
そのときどきで最善と思われる方向を私は選んで走った
なりゆきまかせにしていたら、分岐の一つに乗っていたこともある

くりかえされる出会い、別れ、そしてまた新たな出会い
最初にレールを敷いた時に周囲にいた人たちはみな遠く
単調に見えたレールは起伏と曲折に満ちたものであり
果てしないように思える努力を必要とすることもあれば
努力しただけ報われるようなできごとも、またあり

そうして、まだ私はレールの上を走っている
未来に続くレールは自分と周囲とが一緒に敷いている
でもこのレールは、もっと大きな存在、
たとえば神が敷いているものなのかもしれない

レールがない人生を夢想していた過去に戻りたいとは決して思わない
もう一度、人生をやり直すとしてもまた私はレールの上を走るだろう




        (久しぶりの更新がこんな散文詩?で失礼。ちょっと思うとこあって。)

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2007年2月13日 (火)

相貌失認について

私は昔から、人の顔と名前をおぼえられません。
こういうのを相貌失認というようです。
職業上必要な、細胞や組織の顕微鏡画像なら網膜に焼き付けたように記憶できることもあったりするんですけど。

たとえば、娘の担任の先生がめがねをかけている人だったかどうかすら思い出せません。
ぼやっとは思い出せるので、次にあった時には「そういえばこんな顔の人だった」とわかるでしょうが。
子供の頃、父が半年とかの長期出張に出かけたときは「お父さんの顔を思い浮かべられなくなった」とベッドで泣いたりしていました。

それでもまだ、患者さんに接しない病理医だからいいんだと思います。
昨日の福祉まつりでは、訪れる人がお客さんなのか病院職員なのか(私服ですからね)、
それとも資材を提供してくれている業者さんなのかすらわからず、
なんども「すみませんでした、失礼しました」と赤面です。

他にも、体験談を一つ。
大学受験の時に、隣の席になった人と親しくなり夕食を一緒にとる約束をしました。
いったん宿に戻ってから待ち合わせたのですが、
待ち合わせ場所で、相手の顔がどうしても思い出せない。
自分の忘却を棚に上げて(笑)相手が私を見つけてくれるかどうかの心配ばかりしていました。
結局、無事に見つけてもらえました。

このように相手の存在(その人と話した内容や一緒にいた状況など)は記憶していても、顔を忘れます。
同僚の医師たちは数年がかりでおぼえました。
何度も人違いをして「それはボクじゃない」と言われたりしながら。
学会などで、しばらく会わなかった相手に親しげに声をかけられて
「ええと?この先生、誰だったっけな?」と困ることはしばしばあります。

主な対処法は3つです。
1.「失礼ですが、お顔は記憶にあるんですけど(←これは大嘘!)お名前はなんでした?」とストレートに尋ねる。同窓会ではこのセリフばかりでした。
2.「ええと、鈴木さんでしたっけ?」(沖縄なら比嘉さん?)などと適当な名前で呼びかけて、相手の訂正を期待する(もちろん天然ボケとしての扱いを期待して、です)。
「ごめんなさい、きれいにしてらっしゃるから(お痩せになったから、など応用各種)見違えてしまって。」と口八丁でフォローしたりもします。
3.徹底的に名前を呼ばずに用を済ませることも多いです。
もともと顔と名前を一致させたいほどの相手ではない、今、私が話している相手が誰なのかわからなくても私の人生に大きな影響はない、と割り切って、相手が怒り出さない程度の対応にします。

人の顔と名前を記憶できないのは、私の脳の欠陥なんだと以前から思っていますが、あまり深刻には考えていません。
私にとってかなり大切な人でも顔を忘れたりして、相手の機嫌を損ねたりもするんですが、大切な人については、顔を記憶できなくともその人の「存在」をしっかり記憶しています。
顔を忘れられていた人が不愉快になるのは大抵、存在を忘れられている、軽んじられていると思うからのようなので、不本意にがっかりさせてしまった相手には「人の顔がおぼえられないだけで、あなたのことを忘れていたわけではありません、こんな細かいこともちゃんと記憶しています」と相手についての細かい記憶を披露して、大切な人だと思っていることをアピールしたりします。
顔以外のことは記憶されている、と理解してもらえればそれほど困ることはありません。

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