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2012年6月 2日 (土)

宮石理先生を偲ぶ

千葉、幕張での臨床細胞学会春期大会に参加します。

幕張メッセで臨床細胞学会春期大会が開催されるのは2007年以来で、私が幕張に行くのもそのとき以来のことです。

亡くなられた宮石理(みやいし おさむ)先生に最後に会ったのが、この2007年の臨床細胞学会だったので、再び幕張メッセに行くにあたって、私なりの追悼文を書いてこちらに掲載しておきます。

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宮石先生は、私の駆け出しの頃の病理診断学の師の一人です。
非常勤病理医として週1回病院にいらしてた、個性の強い先生でした。

病理医としてのトレーニングを始めたばかりの私にとって、最初、宮石先生は他の先生方とは違って、ちょっと敷居が高いというか、とっつきにくい、近寄り難い先生でした。
ぶっきらぼうな言葉で話されましたし、それも、ゴチャゴチャ何を言ってるのか判りにくく、厳しい言葉も多く。
「まだこんなこともできないのか」というようなこととか、何度言われたかわかりません。
先生のお名前の「理」という字も、何て読むのですかと本人に尋ねた時には教えてもらえず、後で他の人から教えてもらいました。
直球ストレートではなく、変化球ばかり投げてくる人、というのが当時の私の印象です。

でも、そういう言葉や態度とは裏腹に、宮石先生はとても面倒見が良い人だ、ということはじきにわかりました。
ある若手の一群(釣り仲間たち)には「隊長」と呼ばれ慕われていました。
私自身はそんな呼び方をしたことはありませんけれど、確かに、先生というよりは「隊長」っていう呼称の方が似合う人だったように思います。

私が病理医になって数年目、初めて術中迅速病理診断を一人でする機会が訪れました。
上司の出張予定の期間中、私が一人の時に術中迅速診断の予約が入ったのです。
術中迅速診断は重い責任を伴う、病理医の業務の中で最も難しいともいえる業務です。
それまで何度も上司と一緒に診断してはきたものの、一人で、というのは初めてで、不安でたまりませんでした。
予定された日、非常勤の先生方の中で一番、近くの施設にいるのが宮石先生でした。
前の週に来られた際に事情をお話したら「どうしても困ったらオレを呼べ」と言ってくださいました。

そして迎えた術中迅速の当日。
案の定、診断に困りました。

肺腫瘤。
negativeだろうと思いました。
Tuberculosisだろう、と。
思ったけれど、確定できるほどの自信が、私にはなかったのです。
(注:Tuberculosisの結節は肉眼診断できるのならばfrozen sectionを作製しない方が良いとされています、飛沫感染源となるため。しかし、当時の私には肉眼診断だけ、という選択肢はありませんでした。)
迷った末、宮石先生に電話しました。

「待ってろ、30分で行くからな」と言って、宮石先生は病院に駆けつけてくれました。
顕微鏡を覗いてすぐ診断を確定し「(臨床医に連絡する)電話はまかせた」と言ってサッと帰って行かれました。

病院内の滞在時間は3分、いや、1分だったかもしれません。
ものすごくお忙しい中を無理して来て下さった、というのは私にもわかりました。
何か嫌味でも言われるだろうか、とビクビクしていたのですが、余計なことは一言もおっしゃいませんでした。
短時間で診断して帰って行かれた宮石先生の後ろ姿、忘れません。

私が病理専門医になり、沖縄の病院で働いてからも、何度もメールや電話で助けていただきました。
たとえば患者情報が直に記載されたスライドグラスの処分方法を尋ねた時の解説も、実にユニークでした。
 「んなもんはな、金属のバケツに入れて、金属バットでゴリゴリ割る。
 ゴリゴリ、ゴリゴリだ。
 最初はなんでこんなバカバカしいことをやってるんだ、としか思えない。
 でもやってるうちに、だんだんそのゴリゴリという感覚が快感になってくる。」
電話口で大笑いしてしまったのも、懐かしい思い出です。

2007年春、先生のご病気について知りました。
だから、その年の6月、幕張メッセでお変わりない姿を見かけた時には驚き、とても嬉しかったです。
宮石先生とN先生(先輩女性病理医、私にとっては憧れの素敵な方です)と私の3人で近くのお蕎麦屋さんにお昼に入りました。
ざるそばを食べながら、家族のことや、仕事のこと、いろんな話をしました。
上に書いた、術中迅速の話を私がしたら「そんなこともあったかな、忘れた」と言われました。
本当に忘れたのか、それともただの照れ隠しなのか、宮石先生だったらどっちでもアリです。
先生のご病気のことは話しませんでしたが、私たち全員、この時間がいかに貴重なものであるか、知っていました。

昼食後、学会会場に戻って、ちょっと目を離したすきに、宮石先生はいなくなってしまいました。
お別れの挨拶もせず、そんな風にいなくなるのも宮石先生らしいといえば本当にそうです。
それが、私が宮石先生にお会いした最後となりました。

あれから、5年経ちました。
もう幕張メッセに行っても、学会会場で宮石先生をお見かけすることは、ありません。
ですけれど、今も、そしてこれからも、宮石先生は私の師匠の一人です。
折に触れるごとに私は宮石先生の言葉を、口調を、教えていただいた数々のことを思い出します。
こんな時、宮石先生だったらどうするだろう、と考えたりします。
もっとたくさんのことを教えてもらいたかったです。


宮石理先生のご冥福を、心から、お祈り申し上げます。

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コメント

政治問題化する何か。非常に興味がありますがマスコミはなぜそこに切り込まないのでしょうか。

投稿: table4 | 2012年11月12日 (月) 22時26分

宮石さんが亡くなられた事を、このブログで知りました。高校時代、英語塾の同じクラスで2年間一緒でした。試験が近づくと日の丸のはちまきを絞めて来られたりと個性的で、席が隣だったので色々な事が思い出されます。聴く機会は有りませんでしたが、ピアノが特技と言われていました。まだまだ研究を続けられたかったでしょうに、非常に悲しく残念です。

---slummyです。
日の丸はちまき姿、の若き日の宮石先生。
想像するだけで笑えて、ああ確かに、宮石先生ならそういうことしそうだなー、と思えて、笑った後に涙がにじんできます。
コメントありがとうございました。

投稿: 転職して今はNs | 2014年6月18日 (水) 17時58分

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