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2012年6月 9日 (土)

琉球新報に書きました

琉球新報に掲載していただいた文章を、こちらにも貼らせていただきます。

沖縄県は県議選を目前に控えており、その争点の一つとされている?県立病院独法化に関してコメントを求められたので書きました。

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琉球新報 2012年6月5日

6・10県議選 争点と意義 識者が読み解く(4) 医療

現場直視した方策を

大城真理子(名桜大准教授)

 県立病院の独立行政法人化(独法化)が今回の県議選の争点の1つとされている。これまでの県立病院問題を振り返りながら、地域医療崩壊の類型について解説し、現状を考察してみる。
 県立病院の財政状況が急激に深刻化したのは2006、07年度だった。約60億円の不良債務、約100億円の資金不足といった巨額の数字に表れた財政悪化は、家計になぞらえるなら大赤字。あちこちから借金を抱え、突然の夜逃げもあり得るような状態だったのだ。地域医療崩壊は財政破綻型(例・夕張市民病院)と医師不足型(例・銚子市立病院)の2つが知られているが、08年当時の県立病院は前者、財政危機にひんしていた。
 時を同じくして総務省が公立病院改革ガイドラインを発表し、全国の地方自治体に対し病院経営改革を求め、沖縄でも県立病院の在り方が検討された。独法化も含めた経営形態の変更が論議される中、当時の県立病院の院長全員が独法化反対の意思を表明、病院事業局が「今の経営形態のままで財政再建は可能」と本気の経営再建計画を提出したことを受け、県は09年時点では独法化を選択せず、3年間という期限付きで県立病院の財政再建を図った。
 経営再建の3年間が終わり、県立病院の財政状況は好転した。長年の赤字は解消され、経常収支の黒字化がほぼ実現している。しかし、この3年の間に県立病院は医師不足型の医療崩壊へと進み、以前とは違う危機に直面している。
 私は今の時点で独法化賛成、反対、といった単純な二元論が選挙の争点とされていること、そのものが間違っていると考えている。なぜなら、県民に対して継続的に良い医療を提供したい、という目標、願いはすべての議員候補者に共通していると思うからだ。しかし、それが、県立病院の医療への危機感と県議選のために目標からずれてしまい、正確な病院現場についての知見がないまま、単なる経営形態、行政手法の問題にすり替えられ、独法化賛成か反対かという机上の空論的な争点となっているように思う。
 現場と乖離したイメージで経営形態が争点とされる現状は、政争の具として病院、医療の問題が利用されているだけで、結局は医療の改善から遠ざかることが懸念される。県立病院の重要な使命である離島へき地医療を継続させるためにも、候補者はぜひ病院医療の現場を直視した上で、医師不足型医療崩壊に対する実効性ある方策を病院現場および県民と共に考えていただきたい。(病理専門医)
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識者とされるにはまだまだ未熟者ではありますが、私が理解していることはきちんと説明していきたいです。
これだけの文章で、どこまでご理解いただけたかは疑問ですけれど…。

このブログに載せるにあたって、補足しておきます。

独法化は行政手法の一つにすぎず、魔法の杖ではありません。
病院を独法化すれば良くなる、とか、独法化すれば悪くなる、とかいった単純な話では決してないので、その点を争点にしても仕方ない、というのが上記の趣旨です。

現在も、沖縄県立病院に問題がある、のは明らかです。
上に書いた「医師不足」は問題の一つです。しかし不足しているのは医師ばかりではありません。

問題が解決されなければ良い医療はできません。
そして、問題解決の方法は、一つではありません。

沖縄県議会で、県立病院の問題解決が政治問題化(=「県立病院の医療を良くする」ためではなく、別の思惑が絡んだ形のために妙なことに)された、直近の例をあげておきます。
時間をさかのぼって、いくつかの新聞記事を並べます。
なんだかもう、誰を信じるの、というレベルの話になってきてしまいますけれど。
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病院定数111人増案を可決 県議会
沖縄タイムス 2012年3月30日 09時40分

 県議会(高嶺善伸議長)2月定例会は29日の最終本会議で、28日に可決した県立病院の職員定数を4月1日から173人増やす野党提案の条例改正案(修正案)を、仲井真弘多知事の再議書提出を受けて再採決を行い、地方自治法上、再可決に必要な出席議員の3分の2以上の賛成に満たなかったため、否決した。増員を111人とする原案を、退場した14人をのぞく全会一致で可決した。再議による原案可決は、識名トンネル補助金の返還分5億8千万円を計上した2011年度一般会計補正予算を可決した9日の本会議に次いで、県政史上2回目。

 議会側は再議書を受けて、本会議を29日まで延会した。議会事務局によると、延会は1999年の9月定例会以来、13年ぶりだった。

 修正案の再採決では、高嶺議長を含む24人が賛成したが、出席議員の3分の2に当たる32人に足りなかった。原案採決では社民・護憲、社大・結、新政クラブが退場し、自民、公明、共産、改革の会、民主、無所属が賛成した。

 仲井真知事は「(111人)は、病院事業局長が、病院事業の経営状況、県立病院の医療体制の確保などを考慮し、病院事業における具体的な事務量等を精査し、積算したもの」と説明。「条例定数の改正については、具体的な業務、経営への影響、将来の財政負担等を精査し、必要な職員数を積算した上で、その都度、議会の議決を経るべきだ」と述べた。

 修正案に対して山内末子氏(新政クラブ)、西銘純恵氏(共産)が賛成討論を行った。山内氏は「111人に限定することは県立病院の役割を果たせないという悲鳴に応えることが議会、知事の役割だ。(増員数をめぐる)攻防は県民医療を命懸けで守りたいという姿勢の表れだ」と述べた。

 一方、照屋守之氏(自民)は「111人は文字通り、病院事業局が精査を重ねて知事部局と調整し、県民医療の充実を図りたいと積み上げてきた数字。今回は議会の意思として受け止めてほしい」と反対討論を行った。
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同じ趣旨の記事は琉球新報にもあります

この記事を読むと、「病院事業局(長)が」111人を求めた、という風に思えますよね。
そう言ってる人が二人も出てきますので。

では、173人、という話はどこから出てきたのでしょう。
それは、こちらの新聞記事を読めば、わかるのではないかと思います。
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県立病院「定数見直しを」 病院長らと県議意見交換
琉球新報 2012年2月17日

 県立病院の職員定数、一般会計からの繰入金について県議会文教厚生委員会(赤嶺昇委員長)と伊江朝次病院事業局長、6病院長との意見交換会が16日、県議会内であった。伊江局長は「(定数は)時代の変化に対応できる状況ではない。定数枠に余裕があるにこしたことはない」と述べた。同委員会で議論となった繰入金について院長たちは公正なルール化を求めた。
 県は県立病院の職員定数を111人増員し、2606人とする条例改正を提案しているが、院長らは十分ではないと主張。県立病院は正職員のほかに163人の臨任、454人の嘱託が働いている。南部医療センター・こども医療センターの大久保和明院長は「臨任の多くは1年限りではなく、継続的に必要な人材。経営が成り立つ範囲内で雇うので、定数を3500から4千ぐらい与えてほしい」と要望した。
 中部病院の宮城良充院長は「離島勤務後の医師に正職員の枠がなく、過去に多くの優秀な人材を逃してきた」と指摘し、余裕のある定数を求めた。宮古病院の安谷屋正明院長も「中部と南部医療センターに離島派遣分の定数があることが望ましい」と述べた。
 院長らは直接診療報酬には算定されないが、医療の質の観点から必要な職種もあることを説明。精和病院の新垣米子院長は「精神保健福祉士は不可欠な存在だが、臨任で逃し続けている」と話した。
 繰入金について院長らは「59億円という数字は局長に一任したが、黒字を赤字と相殺することについては納得していない」として、来年度の繰入金算定は新たなルール作りをするよう求めた。
 意見交換には、与党会派が日程の都合が合わないとして全員欠席。野党会派5人が出席した。赤嶺委員長は「今回の意見を踏まえ議論したい。県民の立場で議論をするためにも、与党とも率直な意見交換できるといい」と話した。
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ポイントだけ再掲し、解説します。

>県は県立病院の職員定数を111人増員し、2606人とする条例改正を提案しているが、院長らは十分ではないと主張。県立病院は正職員のほかに163人の臨任、454人の嘱託が働いている。

臨任、嘱託、というのはいわゆる非常勤です。

>中部病院の宮城良充院長は「離島勤務後の医師に正職員の枠がなく、過去に多くの優秀な人材を逃してきた」と指摘し、余裕のある定数を求めた。
>宮古病院の安谷屋正明院長も「中部と南部医療センターに離島派遣分の定数があることが望ましい」と述べた。
>院長らは直接診療報酬には算定されないが、医療の質の観点から必要な職種もあることを説明。
>精和病院の新垣米子院長は「精神保健福祉士は不可欠な存在だが、臨任で逃し続けている」と話した。

ここに記されている、院長たちの声は「現場」の反映です。
病院現場を反映した、現場からの悲鳴です。

意見交換会は、政党別のものではありません。
冒頭にあるように

>県議会文教厚生委員会(赤嶺昇委員長)と伊江朝次病院事業局長、6病院長との意見交換会」

なのです。なのに

>与党会派が日程の都合が合わないとして全員欠席。野党会派5人が出席した。

と既に与野党の政治問題のようになってしまっているのは、どうしてなのでしょう。

単純に日程の都合が合わなかったのならば、この後、別の機会が設けられたのでしょうか。
与党会派は病院現場の院長たちと意見交換できたのでしょうか。

誤解されないように、明言しておきます。
私は、「だから与党はダメ、野党に投票すべき」と言いたい訳ではありません。

与党議員に、病院現場の話を聞かせないようにした「何か」に対して、怒っているのです。
それが「何か」は私には見えていませんし、ある特定の個人であるとは考えていません。
その「何か」は、「病院の医療問題を政治問題にする」ことに長けています。

「何か」の正体に私は興味がありません。
それが何であろうと、どーでもいい。
特定したところで県立病院の医療が良くなる訳でもないでしょう。

大事なことを決める人たちに、病院現場の問題点を直視していただきたいです。

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2012年6月 2日 (土)

宮石理先生を偲ぶ

千葉、幕張での臨床細胞学会春期大会に参加します。

幕張メッセで臨床細胞学会春期大会が開催されるのは2007年以来で、私が幕張に行くのもそのとき以来のことです。

亡くなられた宮石理(みやいし おさむ)先生に最後に会ったのが、この2007年の臨床細胞学会だったので、再び幕張メッセに行くにあたって、私なりの追悼文を書いてこちらに掲載しておきます。

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宮石先生は、私の駆け出しの頃の病理診断学の師の一人です。
非常勤病理医として週1回病院にいらしてた、個性の強い先生でした。

病理医としてのトレーニングを始めたばかりの私にとって、最初、宮石先生は他の先生方とは違って、ちょっと敷居が高いというか、とっつきにくい、近寄り難い先生でした。
ぶっきらぼうな言葉で話されましたし、それも、ゴチャゴチャ何を言ってるのか判りにくく、厳しい言葉も多く。
「まだこんなこともできないのか」というようなこととか、何度言われたかわかりません。
先生のお名前の「理」という字も、何て読むのですかと本人に尋ねた時には教えてもらえず、後で他の人から教えてもらいました。
直球ストレートではなく、変化球ばかり投げてくる人、というのが当時の私の印象です。

でも、そういう言葉や態度とは裏腹に、宮石先生はとても面倒見が良い人だ、ということはじきにわかりました。
ある若手の一群(釣り仲間たち)には「隊長」と呼ばれ慕われていました。
私自身はそんな呼び方をしたことはありませんけれど、確かに、先生というよりは「隊長」っていう呼称の方が似合う人だったように思います。

私が病理医になって数年目、初めて術中迅速病理診断を一人でする機会が訪れました。
上司の出張予定の期間中、私が一人の時に術中迅速診断の予約が入ったのです。
術中迅速診断は重い責任を伴う、病理医の業務の中で最も難しいともいえる業務です。
それまで何度も上司と一緒に診断してはきたものの、一人で、というのは初めてで、不安でたまりませんでした。
予定された日、非常勤の先生方の中で一番、近くの施設にいるのが宮石先生でした。
前の週に来られた際に事情をお話したら「どうしても困ったらオレを呼べ」と言ってくださいました。

そして迎えた術中迅速の当日。
案の定、診断に困りました。

肺腫瘤。
negativeだろうと思いました。
Tuberculosisだろう、と。
思ったけれど、確定できるほどの自信が、私にはなかったのです。
(注:Tuberculosisの結節は肉眼診断できるのならばfrozen sectionを作製しない方が良いとされています、飛沫感染源となるため。しかし、当時の私には肉眼診断だけ、という選択肢はありませんでした。)
迷った末、宮石先生に電話しました。

「待ってろ、30分で行くからな」と言って、宮石先生は病院に駆けつけてくれました。
顕微鏡を覗いてすぐ診断を確定し「(臨床医に連絡する)電話はまかせた」と言ってサッと帰って行かれました。

病院内の滞在時間は3分、いや、1分だったかもしれません。
ものすごくお忙しい中を無理して来て下さった、というのは私にもわかりました。
何か嫌味でも言われるだろうか、とビクビクしていたのですが、余計なことは一言もおっしゃいませんでした。
短時間で診断して帰って行かれた宮石先生の後ろ姿、忘れません。

私が病理専門医になり、沖縄の病院で働いてからも、何度もメールや電話で助けていただきました。
たとえば患者情報が直に記載されたスライドグラスの処分方法を尋ねた時の解説も、実にユニークでした。
 「んなもんはな、金属のバケツに入れて、金属バットでゴリゴリ割る。
 ゴリゴリ、ゴリゴリだ。
 最初はなんでこんなバカバカしいことをやってるんだ、としか思えない。
 でもやってるうちに、だんだんそのゴリゴリという感覚が快感になってくる。」
電話口で大笑いしてしまったのも、懐かしい思い出です。

2007年春、先生のご病気について知りました。
だから、その年の6月、幕張メッセでお変わりない姿を見かけた時には驚き、とても嬉しかったです。
宮石先生とN先生(先輩女性病理医、私にとっては憧れの素敵な方です)と私の3人で近くのお蕎麦屋さんにお昼に入りました。
ざるそばを食べながら、家族のことや、仕事のこと、いろんな話をしました。
上に書いた、術中迅速の話を私がしたら「そんなこともあったかな、忘れた」と言われました。
本当に忘れたのか、それともただの照れ隠しなのか、宮石先生だったらどっちでもアリです。
先生のご病気のことは話しませんでしたが、私たち全員、この時間がいかに貴重なものであるか、知っていました。

昼食後、学会会場に戻って、ちょっと目を離したすきに、宮石先生はいなくなってしまいました。
お別れの挨拶もせず、そんな風にいなくなるのも宮石先生らしいといえば本当にそうです。
それが、私が宮石先生にお会いした最後となりました。

あれから、5年経ちました。
もう幕張メッセに行っても、学会会場で宮石先生をお見かけすることは、ありません。
ですけれど、今も、そしてこれからも、宮石先生は私の師匠の一人です。
折に触れるごとに私は宮石先生の言葉を、口調を、教えていただいた数々のことを思い出します。
こんな時、宮石先生だったらどうするだろう、と考えたりします。
もっとたくさんのことを教えてもらいたかったです。


宮石理先生のご冥福を、心から、お祈り申し上げます。

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